雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

病院に行っても別になにも解決しない

死にたいんです、と言うと医療関係者は露骨に慌てるか、露骨に嫌な顔をする。そりゃそうだ、関わったクライアントが死んでしまったら後味が悪いし責任問題になるから。だから医療関係者が罪悪感を感じないように免罪符としてパキシルだとかデパスだとか大量に処方される。

別にそういうのを求めてはいないので、病院には行かない。

 

死にたいと思っていると気づかれたら最後、精神科にひっぱっていかれて主治医と死なないと口約束させられて大量の薬を処方されてそれで解決したことにされてしまうから、私はいつだって自分の自殺願望を隠すことに必死で、これまで自分の死にたいという気持ちにゆっくりと向き合えたことがない。

だけど、世間一般にイメージされる自殺願望と私の死にたいの間には齟齬があるように思う。

 

一般的に想像される自殺願望というのはおそらく、自主的に首をつったり飛び降りたりなにかしら死に対してアクティブな行動を起こしたいという願望なのだろう。そしておそらく、リストラやいじめなどの明確な原因を経て自殺願望を抱くに至る。

だから死にたいなんて口に出そうものならカッターや包丁をとりあげられ執拗に生い立ちを聞かれる。

まぁ、衝動的に飛び降りたくなったりはするから一般のイメージもあながち間違えではないのかもしれないが、基本的に私は能動的に死のうとはしない。死にたいとは思ってもそのために華厳の滝や富士の樹海まで旅行できるほどの熱意を持ってはいない。ただ、食事をしたり体を動かしたり、あるいは会話をしたり仕事をしたりといった生命維持に必要なことをこなすほど生きることに執着することができない。だけど熱意も無気力も持続しない私は時々は食事をして結果的に今でも死に至ることなく生きている、というのが現状なのだけど、ここまで説明する前に相手が慌ててしまうので、私の中の死の感覚を表現したのはもしかしたらこれが初めてかもしれない。