津久井やまゆり園での大量虐殺事件についての声明が相次いでいる。
障害があっても、誰かの手助けがなければ生きることができなくても、だからといって生きる権利を奪われる理由にはならない。人は生きたいと望む限り支援を受ける権利がある。
それをあたりまえのこととして表明できるこの国は素晴らしいと思う。
そして、生きたいと願いながら十分な支援を受けられず歯痒い思いをしている人もまだまた沢山いて、今回の相模原殺傷事件を踏まえ「自分も殺されてしまうのではないか」という恐怖を覚えざるをえない立場の人もいる。そういった人たちに向けて、上記記事のような「どんな人でも生きる権利はある」という表明をしていくことは重要だ。
だけど、生きたいという希望を保障する試みに比べ、死にたいという希望を保障する試みはあまりに踏みにじられている。
もしかして、どんな重い障害があっても十分なケアがあれば毎日楽しく幸せに暮らしていけるのだと思ってはいないだろうか。
重度障害者はどんなに手厚いケアを受けていても、気管に管をぶちこまれる苦痛を、看護師に便を掻き出される感触を、骨まで露出する深い床擦れを、なくすことはできない。
どんなに医療が発展しても、死によってしか安寧がもたらされない状況に陥ることはある。
今回の事件では当事者の同意も無しに殺してしまっているのだから、障害者に死ぬ権利があるというのは少々的外れな主張だろう。だけど、生きる権利ばかり主張される影で苦痛でしか無い生を押し付けられている人たちがあまりに多過ぎて、今回の事件によって生きる権利がさらに声高に叫ばれることに危機感を覚えている。
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