以前精神科医に、人格がそれぞれそれなりに確立しているのに固有の呼び名が無いのは珍しいと言われた。わかんないけど、そういうもん?
他の解離性同一性障害の人に会ったことがないから比較しようが無いけど、言われてみりゃ私の場合、各人格にタロウだのハナコだのという固有名詞は無い。固体認識が必要なときには一号とか二号とか適当に呼ぶ。
ていうか逆に、人格に固有名詞をつけるのってどういう心境なんだろう。
現代日本において名前というのは生まれる前に親に与えられるものだから、親に名前を与えられて以降に生まれた『私達』は名前をつけられる機会が無くて、だから通称はあっても名前は無い。え、それって普通じゃない?むしろ他の人はどうやって各人格に名前をつけてるの。めっちゃ気になる。
名前=真名 みたいなのにこだわりすぎてるからダメなんかな。もっと気軽にあだ名みたいなのをつければいいのか。でもそれだと時と場合によって変わるじゃん。
ていうかそもそも、人格ってそんな明確に分けられるものではないっていうか。もともと一人の人間を分割して見るための補助線なんだから、どう定義してどこに境界線を引くかでどこからどこまでが一人の人格なのか捕らえ方は変わってくる。
同じ場所でも「八戸」「青森」「東北」「東日本」「日本」「アジア」「地球」ぜんぶ正解、みたいなノリ。
むしろ私、個人というものを近代の幻想だとしか思っていないので人格とかそういう以前に人間の認識という根本から混乱している。名づけられて初めて存在を認識できるみたいな、構造主義とかそういう系統の話。
いや、そこまで哲学的に考えなくてもいいのかな。
ただちょっと区別するのに不便だから名札つけとこ、みたいな感じで名前をつければいいのだろうか。