雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

健全な許しとは、忘却のこと

たぶん、憎しみや悲しみを抱かざるをえない体験をしてしまった人が最終的に求めるものって、「過去にあった嫌なことを引きずらず、現在と未来を楽しく生きる」ていうことじゃないかなという気がしている。

記憶喪失にでもならない限り、あったことはなかったことに出来ないから、つらい記憶を引きずって生きるしかない。だったら「まぁいろいろあったけどいまさらどうでもいいや、それより今日の晩御飯何食べよっかな」みたいな心境に到達できることがゴールなのかもしれないなって。

 

でもって、「まぁいろいろあったけどいまさらどうでもいいや」って思えるには、ちゃんと加害者を憎み続けることが大事なんだろうと思う。世間一般的には「加害者を許すことがゴール」みたいなのがあるし実際そう誘導したがるカウンセラーもいるけど、許す必要なんて全然無いし、次会ったら全身生皮はがしてイチモツ切り取った後にガソリンかけて火つけてやる、くらいの勢いできっちりしっかり憎み続ける必要があると思う。

他の人はどうだかわからないけど、私は加害者を心底憎んでいるからこそ加害者のことを忘れることができる。加害者にも事情があったのかもしれないと思いを巡らせることもできる。ま、どんな事情があれ手加減無しにめちゃくちゃ制裁加えたしこれからだって容赦する気は無いけど、容赦無しに制裁を加える覚悟があるからこそ他者を尊重できる。なんか上手く言葉にできてないんだけどこのニュアンス、伝わるかな。無理かなw

 

前も書いたけど、相反する感情を抱き続けることを恐れている人はとても多い。

でも人の心はきっと天秤みたいになっていて、許しの対極にはちゃんと同じ大きさの憎しみが無いとバランスを崩してしまう。ちゃんと憎まずに許しだけを与えようとする結果が共依存なんだろなって思ってる。