雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

暴力と体罰と私の中にある、超強力な生存者バイアスについて

体罰を肯定するのはクズによるクズのための生存者バイアスにすぎない、と前回書いてて思ったのだけどそんなこと言ってる私自身も精神科医が引くほどの強力な生存者バイアスを持ってる。

 

暴力を受けたことを合理化するために「暴力によってよりよい大人になれた」みたいな方向性に行くと暴力礼賛のクソになるわけだけど、私の場合は「暴力は絶対悪で誰も救わない」という大前提を保持した上で「だが暴力が発生してしまうどうしようもない状況というものは存在する」という思考の流れになっている。

まぁねぇ。

人間、追い詰められたら誰だって攻撃的になるよねぇ。

有史以来、他人のために自分をささげられた人なんてせいぜいキリストくらいしかいないわけで、だからこそキリストの伝説が2000年も語り継がれてるわけで、ガンジーだってマザーテレサだって極限まで飢えたら人を殺すんじゃないかなたぶん。

 

「どんな高潔な人でも状況によっては必ず鬼になる」という生存者バイアスを私は保持しているのだということを意識して自分のされてきたことを振り返ると、気持ち悪いくらい理路整然と過去を意味づけていることに気づいて、人間の認知バイアスすごいなぁと思った。

 

私は「暴力」は受けたけれど、「体罰」は受けたことがない。

「お前が悪いから罰として殴っているんだ」みたいな責任転嫁は一度もされたことない。

加害者たちは、殴ってしまうことに、犯してしまうことにすごく傷ついていて被害者である私も傷ついていることをとても悲しんでいて、それでも自分を止めることができなかったというのは彼らの一生の傷になっただろう。私は彼らを生きている間に許すことができなかったことを悔やんでいる。だけど彼らはたとえ私が許したからといって、いや許したらなおさら罪悪感に苛まされつづけただろう。

 

みたいな。

まぁ昔のことだし、私の記憶はかなり破損してるわけだし、なんだったら暴行を受けたという記憶自体が偽りの記憶という可能性だってあるわけで(傷跡残ってるけども。。)実際加害者がどう思ってたかなんてわかんないわけで。

だけどなんか、実際はどうかわからないわけだけど私の心の中では、私を殴った人も犯した人もめちゃくちゃ苦悩してたってことになってる。

 

もうそれは私にとって当たり前すぎる大前提で、だから今回「体罰は子供への愛の鞭だ」みたいな言説をみてすごくのけぞった。そんな前提がこの世に存在すること自体が信じられなくて、ものすごく否定したくなって、自分がビンタされたわけでもないのに松本某とかいうクズを殴りにいきたくなるくらい腹が立ったのはたぶん私自身の生存者バイアスが脅かされたからなのだろう。

 

いやでもさぁ、ちっちゃい子ってふにゃふにゃふにふにじゃん。あれはモフって愛でるものであって叩くとかありえない。腕時計が吹き飛ぶような殴り合いの喧嘩はぜんぜんありだけど体罰はほんと信じられない。

中学生や高校生のごつごつしてかわいげのない年頃でも、やっぱ子供は子供だからだめ。ていうか年下に手を上げるとかダメ絶対。