雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

現実問題、全員を救済はできない

安楽死小説がはてなのトップに上がってて、あれは格差社会とかがメインで安楽死自体はサブテーマなのだけど、安楽死ってまじ必要だよねと思った。

 

たとえば、胎児の人権だとか言ってNICU作って重度障害者を量産したわけだけど、それをもっと推し進めたら重大な遺伝子欠損があって受精はしたけど着床はしなかった受精卵だって人権を与えるべきということになる。

NICU上がりの重度障害者というのは目も耳も聞こえず知能も無く一生病院で管にまみれたスパゲッティみたいになって奇声を発しながら管から十二指腸に栄養流し込まれつつ何十年も生きるわけだけど、着床すらできない受精卵を救ったらもっとすごいことになるよね。無理やり培養したとしても試験管の中に浮いてる脂肪の塊にしかならないよね。グロい脂肪の塊を生かすために医療費が一日あたり一千万単位でかかるんじゃね?

てことになる。

 

認知症もそう。あれ病気だっていわれてるけど実際は知能の低下に環境に適応できないストレスが加わったコンボ技だから。

だから生活様式と価値観が激変している現代では認知症が大量発生する。つまり認知症になるということはヒトとしての賞味期限が切れてバグを起こしている。無限に金とヒマがあれば知能の低下に対応した環境整備もできるかもしれないけど、それはつまりバブル期の島耕作的な世界観であったりホモを笑う精神性を構築してさしあげることだ。

 

ミクロ視点で見たとき認知症の介護というのは大好きな身内を見捨てることだけど、マクロ視点で見たとき、もうじき死ぬ年寄りにいい思いさせてあげるためだけに多くの人の人生を犠牲にすることになる。

介護のなにがきつかって、肉体労働の部分ではなくて「被介護者を愛すること」が「自分の人生を食いつぶすこと」と等価交換になっていることだ。じいさんやばあさんを愛する気持ちがあるなら自分の人生を犠牲にできるはずだ、犠牲にできないのであればおまえなじいさんばあさんを愛していないのだ、という。

 

そういうの、お互いに望んで無くない?

じいさんばあさんだって息子や娘が自分たちのために人生をささげるの望んでないだろうし、むしろ「子供は親のために犠牲になって当然」みたいな身内とはさっさと手を切ったほうがいい。

 

もういいよ、許してあげて。

生きる権利ガーとか環境さえ整えバーとか言うのやめたげて。