このあいだ鉛筆もお箸も普通に両方で使える両利きの人に会って、ちょっとびっくりした。両利きといってもたいていはどちらかが優位になるものだけどその人は少なくともぱっと見は右手と左手を同じように使っているように見えた。
その人が言うには、右手と左手の違いはただ経験値の違いにすぎなくて、左手だって右手と同じように経験を積めば同じように使えるようになる、脳の構造の違いも経験によって後天的に形作られる、とのことで、まぁそれがほんとかどうかは知らないし、人類が利き手システムを採用してきたということは利き手があるほうが有利なのかもしれないのだけど、少なくとも今目の前に両利きの人が存在していて右手と左手の左右差は解消できるということを証明していた。
この驚き感、なにかに似てると思っていろいろ考えていたんだけどこれは差別が当然と思っている人が被差別者の逆襲にあったときの気持ちに近いのではないだろうか。
私は右手優位主義者であり左手蔑視主義者で、右手で鉛筆を使ったりお箸を使ったりといったメインの仕事をすることにまったく疑問を感じていないし、左手が紙を押さえたりお椀を持ったりというサブの仕事をするのも当たり前だと思っている。
なのにある日突然左手が「われわれは差別されている、われわれも右手と同様に扱われるべきだ」とか言い出したら、たぶん私は鼻で笑うと思う。「左手なんて不器用で何も出来ないくせに右手と同じことしたいなんて何言ってるの?」というのは「女性は馬鹿で感情的で何もできないくせに男性と同等だなんて何言ってるの?」とまったく同じ構造だ。
そして左右同権社会みたいなものができたとして、右手と左手を差別するのは良識ある大人のやることではない、みたいなのが常識になったとして、そこで左手で字を書くなんていうめんどくさいことを強要された私は古き良き右手優位主義社会を懐かしむだろうし、なんだったら左手優位復権を唱える安部自民や小池新党に投票しちゃうかもしれない。
そう考えてみると性教育をやるなとか教育勅語復活とかいうバックラッシュを恥ずかしげも無く実行してしまうオヤジたちの面の皮の厚さというのも少しは理解できるかもしれない。彼らの中では彼らが正義なのだろう。私が虐げられてきた左手のことなんて考えもしないのと同じように、彼らは彼らが踏みつけてきたもののことなど考えもしない。そんなやつらはやく死ねばいいのに。