雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

貧民の介護はどうあがいても貧困を再生産する構造について考えた

以前、医療介護という仕事の構造上、医療費が国庫を圧迫している以上絶対に景気回復しない、みたいなことを書いた。

hedgehogx.hatenablog.com

 

一億総中流だとか景気が良い状態というのは産業革命以降の大量生産使い捨て文化によって支えられていて、大量生産しつづけないと維持できない。でも医療介護はどうがんばってもマンツーマンの仕事で、たとえばミュージシャンは何千人もの人に同時にCDを買わせることができるけど、一人の介護士が1000人のオムツを同時に変えることはできないから、どんなに人手不足でも介護士は貧困水準の給与しかもらえない。だって介護士はそれくらいしか稼げないから。

 

そう考えると結局、貧民がいっちょまえにオートクチュールを求めるからだめなんだなと。

貧民は貧民らしく地べたにはいつくばって大量生産品を消費してればよろしい。量産品で対応しきれない規格外の貧民はさっさと死んで来世に期待。それは不幸なようにみえるが案外気楽で幸福な世界になりうる可能性を秘めていると思う。

大量生産品しか消費できないなんておもしろくない、と思うかもしれないがバブルの時代だって庶民は馬鹿みたいに高いだけの大量生産品を消費していたわけで、現在でも庶民は量産型の家に住み量産型の教育を受け量産型の労働者になっている。

規格外の貧民は死ね、というのは条件によってはかなり残酷にもなりえるけれど、豊富な石油や代替エネルギーが補償されている現在では、飢えも凍えも殺されもしない。食べ物が無いから人肉食うしかないという天保の大飢饉みたいなものではなく、ただ単に過剰な介護が必要になったら死ねというだけ。そんなの生物である以上当然じゃん。

誰も望んでいない苦しいばっかりの延命に疑問を持つ人はどんどん増えているし安楽死は非合法にも関わらず自分で死期を選ぶ人もどんどん増えている。

 

ごちゃごちゃ言ってないでみんな早く死ねばいいのに。