雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

娘の幼児期のアミニズムが否定されず育ちつつある

小さい子供は「全てのものに意志や思考がある」というアミニズム思考をすると言われています。

ドラム型洗濯機は「おなかがぱかってなる洗濯機さん」昔ながらの縦型は「あたまがぱかってなる洗濯機さん」、イチゴが赤くなるのは「小人が太陽と赤い宝石を混ぜた絵具を塗ったから」雨が降るのは「かっぱさまの頭のお皿がぬれたから」、プリズムで光が反射するのは「妖精のダンス」

バッタを捕まえてきたら寂しくないように歌を歌ってあげ、スライムを作ったら紙コップで飼う。そのままだとカビてえらいことになるので「スライムさんも野生に返してあげないとかわいそうだ」と説得して庭に放牧しました。やせいのスライムがあらわれた。あとでこっそり回収しておいたら「きっとスライムの巣に帰ったんだ」と喜んでいました。 

 

 

一般に幼児期のアミニズムは大人になるにつけ否定されるとされているらしいです。

大人にはトトロは見えず、魔女のキキもクリストファーロビンも物語の最後で「動物やぬいぐるみとは意志の疎通ができない」と気づき彼らの親友を虚構の世界に置き去りにして終わる。

だから私は彼女の幸福な世界が少しでも長く続くよう、彼女を取り巻く環境の中からアミニズムの否定を注意深く取り除いてきました。彼女は「妖精なんかいない」と言われたことがたぶんほとんどない。少なくとも私の知る限り一度もない。彼女に係わる大人は全員、「イチゴを赤くする小人」を大真面目に探してくれます。

これは、子供時代なんてせいぜい数年でその後は容赦なく現実という名の同調圧力を押し付けられるのだからせめて親のコントロールできる時期くらい守ってやりたいという大人のエゴです。正直なところ、少子化で子供に係わる大人が少ないご時世への腹いせでもある。ワンオペ育児だとこんな極端な教育だってできちゃうんだぜ。。

 

そんな純粋培養されちゃったちびちゃんなのですが、小学校6年生になろうかというのにいまだに「コップに入れて放置した水はまいごになって帰ってこれない」とか言う。水が蒸発して減った現象を「まいご」と表現しているらしいです。

妖精やら神様やらをまるっと信じている彼女ですが、同時に科学的なことを調べるのも好きでした。小学校3年生くらいまでは高校の化学や数学の参考書を眺めて計算してみるのが趣味だったので、彼女の中で水の妖精と水の平衡はどのように処理されているのだろうと気になっていたのですが、どうやら彼女の中では「水の妖精」は現実で「水の平衡」はファンタジーだったようです。普通と逆です。物理や化学の計算式は単なる方程式であり参考書の中でのみ有効なルールでありごっこ遊びの感覚。

さすが我が娘は相変わらず斜め上の発想をなさる…

 

ですが小学校5年生になり本格的な理科の授業が始まるにつれ、科学は現実とリンクしているらしいということに彼女は徐々に気づいてきました。

このように彼女は科学的知見を受け入れ、「水に思考や意志はない」という常識を受け入れ無機物の友達を空想の世界に置き去りにして大人になるんだろうな、がんばれ娘。

 

と思ってたんだけどここ数か月で娘のアミニズムが変化してきてて、そうかアミニズムの否定ではなく統合という道筋があるのかと興味深く見守っている。

 

 

今娘は水鉄砲をお風呂に持ち込んでいろいろと実験するのがブームで、まずは水と空気の比重、次に気体の体積と圧力の関係、そして最近は気圧と重力の存在に気づきつつあります。

特に気圧について興味津々なのでそのうち高山に連れて行って水の沸騰の実験とかやろうと思います。空気と水の実験、食塩と半透膜の実験、淡水魚と海水魚の思考実験など様々な日常生活体験を通して気圧という当たり前のものに気づく過程を見るのは親としてもとても興味深い体験でした。

その他、密閉容器にさまざまなものをいれて重量の変化を計測したり、振り子を作ったり、さまざまなものの落下速度を調べたり、物理が机上の実験と計測であったラボアジエの時代を追体験しているようです。

そんな彼女は数か月前まで「空気は水に入れると一直線に外に出ようとする、だからきっと空気は水と仲が悪いんだ」とか言っていました。

でもその後、水に空気が溶ける現象や、温かい空気は上方に移動する現象など様々なことに気づきその都度「空気と水は仲が悪い、でもよーく混ぜると空気が消える、でもあったかくなるとまた動き出す」とストーリーが増えてゆきます。水と空気のアミニズム的関係は、もはや昼ドラ並のドロドロしたものとなり整合性が取れなくなりつつあります。

 

もういいよ君は十分がんばったよ。もうじき中学生なんだしさ、アミニズムやめちまえよ、レッツ科学。

 

だけどそこで彼女は「水と空気は混ぜ合わせられるのはどういう気持ちなのだろう」「水は温度が高くなるとどういう気持ちになるのだろう」と一つ一つにアミニズムを適応しだしました。

「もし私が狭い容器に入れられて振り回されたら死んでしまう。だが水は壊れたり死んだりせず、ただ振る舞いを変えるだけである。よって私と水は同じ状況でも違うことを感じるのだろう」

「そもそも水にとっての壊れるとか死ぬとは何だろう。H2Oが電気分解によりH2とO2になったらそれは『水の死』なのだろうかそれとも『新たな出発』なのだろうか」

「H2Oを構成する部品であるH2とO2がそれぞれ独立した物体として自我をもつのであれば、たとえば人間を構成する部品である心臓や肺にも自我があるのだろうか、その場合人間は心臓と意思の疎通ができるのか」

 

「もし私の体温が上がったらそれは風邪やインフルエンザのときである。だが水はH2Oであり定義上ウイルス感染しない。よって水の温度が上がるのは私の体温が上がった時とは全く違う気持ちになっているのではないか」

「人間にとって熱が出るのと、水の温度が上がるのは何が違うのか、人間にはホメオスタシスがあり水にはないのか」

 

と、物質の人格(物格?)を尊重することにしたらしい。

最終的に彼女のアミニズムは

「私に分かるのは水がどのような条件でどのように振る舞うかを知ることだけである。水の気持ちは水にしか分からない。理解できないという大前提を踏まえたうえで、今後とも水にとって何が最善なのかヒアリングする方法の模索は続けてゆく」

というルームシェアの極意みたいなものに落ち着いた。

 

 

アミニズムは「他者も自分と同じ感じ方をする」という発想から出発している。

大人になるというのは「他者は自分と同じ感じ方をしない」と認めることでそれは「他者には感情や意志は存在しないただのモノである」と考えることとイコールだと私は思っていた。でもよく考えたらそれって「他者はすべて意志のないモノであり意志を尊重しなくていい」というセクハラオヤジみたいなことになってしまう。だからピーターパンしかりプーさんしかり、子供時代の終焉を描く物語はすべて物悲しい。

 

でもアミニズムからの脱却とは他者をモノとして扱うことではないのかもしれない。

 

他者を自分の延長として捉えると同時に他者とのコミュニケーションをあきらめないこと、理解不能の他者という複雑さを認めること、「もし自分だったらこう感じる」と「しかし他者は自分ではない」を両立させることがもしかしたらできるのかもしれない、と思いました。