雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

解離と同一性の違いとか考えてみた

最近このジャンルでブログ書いてないなと思ったので書いてみた。

もしかしたら真面目に検索していたらうっかりこんなブログを踏んでしまった人がいるかもしれないので、一応自己紹介というか前提条件から書いていきます。

 

このブログを書いている奴は頭がちょっとヤバいです。

病名の変遷 適応障害→うつ→PTSDアスペルガーかも?→違ったただの高IQ→統合失調症じゃね?→解離性同一性障害かよ早く言ってよね

病歴 自傷、他害、自殺未遂、遁走、健忘、潔癖、あとなんかたぶんいろいろ

生活歴 幼少期は軟禁暴力その他いろいろ(よくおぼえてない)→脱出(よくおぼえてない)→逃亡人生(よくおぼえてない)→オッサンやおねえさんに拾われたり大学行ったり(よくおぼえてない)→なんだかんだで零細企業の社長的なことやってる(よくおぼえてない)

だいたいよくおぼえてないのですがたぶんこんな感じ。いろいろ特殊すぎるのでたぶん一般化はできない気がするのであまり真面目に受け取らないでください。

 

なぜ大学に行けたかはいまだに謎です。学費とか保証人とかどうしたんだろう。

おそらくちゃんと調べれば記録が残っているだろうに調べずに謎のまま放置しているというあたりが私のヤバさなのだろうと思います。人生が断裂していることに疑問を感じない。逆に、人生が断裂しているのに致命的な破綻に至らない。

 

私の人生には私が覚えていない選択がたくさんあります。

たとえば、私の部屋には私が読めない言語の本が散乱しているし私のスマホには私の知らない人からLINEが来るし私のPCには私の知らないアクセス履歴がいっぱいあります。覚えのない傷とか、気づいたら血まみれとか気づいたら知らない人とベットの中とかいうことも結構ありました。最近ふと気づいたら知らない温泉旅館でおいしいご飯を食べてたりもしました。温泉旅館くらいならまだいいけど外国とかやめてほしい。言葉通じないし。せめて英語圏にしてくれ。

 

こんなにめちゃくちゃなのに、たとえば大事な取引とか打ち合わせとかはわりと滞りなく進めることができるので一応仕事ができています。カード破産とか犯罪に巻き込まれるとかもしていません。いや犯罪はちょっとあったけどそこまでヤバいものには巻き込まれてない。どうしてこうなったかは覚えていないけど、確かに自分の選択でこうなっているという感覚だけはあります。たとえ全然好みでないオッサンと同衾していても「やっちまった」とは思うけど「なるほど私はこういうオッサンとも寝るのか」という納得感もある。

 

これはわりと珍しいことらしく、多くの解離性同一性障害では人格交代中に自分の納得いかない選択をするらしいです。むしろ主人格が禁止していることをするために人格交代が起こるっぽい。いつもしっかりしている人が幼児退行したかのように甘えたり泣きじゃくったり、倹約家の人がその反動のように大量の買い物をしたり。その場合、自分の選択の結果を目の当たりにして違和感を感じるそうです。こんなに甘えるのは私ではない、こんなに買い物をするのは私ではない、というような。ちょっと私にはよく分かりませんので間違っているかもしれませんが。

この、私の強固な同一性はいったいなんなのだろうというのを考えていて、もしかしたらこれは納得の有無なのではないかという仮説を考えてみました。

 

部屋に文庫本があったとして、その本が確かに自分が手に取り購入したものだという確信はいったいどこから来るのでしょうか。

普通なら、その本を本屋で見つけてレジに持って行った記憶があるから自分が購入したのだとわかるのだ、と考えそうです。

でもたとえば部屋を掃除していたらなぜか出てきた旅先のキーホルダーがあったとして、そのキーホルダーを購入したことを忘れていてもキーホルダーが自分のものだということには疑問を持たない、というようなことはたぶんよくあることです。

逆に、口うるさい親戚のババアに押し付けられた趣味の悪い服があったとして、押し付けられた時点でその服は形式上は自分の所有であるけれどあまりに趣味が悪くて自分のものだと思えない、なんてこともあります。

自分の物だと感じることと、その物を手に入れた経緯を覚えているかどうかは実は結構無関係です。記憶よりも肌感覚、自分にしっくりくるのか違和感を感じてしまうのかという部分のほうがはるかに大きい。これは認知症の人をみていても思うことです。

 

人間は多くの人が自覚しているよりはるかに感覚的な生き物なのだと思います。

記憶も知識も全くあてにならない。見たいものを見て覚えたいものだけを覚え、あてにならない曖昧な脳の信号のつじつまを適当に合わせて生きているのが人間です。私はたまに『妖怪』を見かけます。身なりの良いご婦人が路上でとんでもないことを叫んでいたり、スーツを着たサラリーマンが公園の片隅で延々穴を掘っていたり。でも彼らは認識されず、なかったことにされます。通行人は彼らに気づかないし彼ら自身も自分の行動を覚えていない。誰もがみんな平然とつじつまの合わない行動をして、それを平然と忘却して同一性を維持している。私は彼らのかたくなに異常を認めない健常性が少し怖い。