雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

自分が加害者だということを認められないメンタリティがあるのかもしれない

ロッコ問題で目の前の一人を助けるために5人を轢き殺すという選択もまぁ一つの解答だと思う。そもそもどちらを選ぶと何人がどういった犠牲を強いられるのかとか路線を変えるとかトロッコに乗らないとか全人類を爆破するといった前提から崩すことを考えるのも重要と思う。

だけどそういうレベルではなくて、目の前の一人で頭がいっぱいになって「一人を轢き殺せと言うのかこの殺人者!」みたいなことを怒鳴り散らして結果として100人くらい轢き殺した上に救いたかったはずの一人まで共倒れになっているのに一人を救えたことに満足する、みたいな人が多いなと。

 

そりゃぁね、患者を救えるのは素晴らしいことでしょうよ…

 

 

私が言いたいのは、誰をどう救うのにどれだけのコストがかかって、じゃあ誰をどれくらい救えば全体の幸福が最大になるか、そのための統計とか計算方法とかいろいろ考えようということなんだけど。そういう話を一切せずに目の前にいる都合の良い弱者様にリソース投入して救った気になって自己満足する脊髄反射いったい何なの。議論の出発点にすら立てない。自分が誰かを轢き殺したことを絶対に認めようとしない。

 

という現象に名前をつけたい

 

そういう人はたぶん、自分が薄汚い加害者であるということを認められないのではないかと思うようになりました。

男性は潜在的加害者という言説に吹き上がるのも似てる。彼らはセカンドレイプが横行するから男性という属性全体を警戒するしかないという構造を絶対理解しようとしない。あれは自分にとって都合が悪いから、ではなくて、善人なはずの自分がこれまで加害者であったことを認めたくないのかもしれない。

ちょっと前のシロクマ氏の喫煙懐古主義もそう。自分がこれまで他者を犠牲にした心地よさを享受していたことを認められないから、昭和マッチョイズムが全ての人の理想郷だったということにしたい。

 

なんなのなんでそんなデリケートwwなの。

世界公平仮説と似てるけどちょっと違うから、自分善人仮説?

そういやこれまで関係のあった男性たちもこれですごく苦しんでいたような。普通の穏やかな触り方を知ると、自分がこれまでほとんど暴行と変わらないようなセックスしていたことがつらくて恐ろしくてそこを乗り越えるのが大変らしい。知らんけど。どうせ生物は生きてるだけで誰かを殺してるんだからしょうがないじゃんそんなの、と私なんかは思うわけだけれども。

あと間違いを認められない人も恥をかきたくないとかだけでなく自分の間違った知識で他人に迷惑をかけたことを認められないのかも。あー思い当たる。だから重大で責任の大きい間違いほど認められないんだよね。

 

 

てことは、贖罪の儀式が無いのが問題なのかも。

前回の記事で結婚式みたいな死別式をやれば無駄な延命せずに気持ちよく死ねるんじゃねと書いたけど、結局みんな許されたいんじゃないかな。加害者を苛烈に追い詰めるのも、加害の構造を認められないのも、老人介護でその他の人が犠牲になってることを認められないのも、必要なのは説得の前に許しというか保障というか、意識高い感じに言うなら心理的安全っていうか、なんかそういうシステムを導入したほうがいいのかもしれない。

 

 

ほんと、みんな頭悪くてお膳立て考えるの超めんどい。

やりたいようにやろうぜ実績上げられた方が勝ちでいいじゃんか…