雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

性犯罪を刑法で処罰するという発想自体が無理があるのかもしれない。

日本では泥酔した女性はフリー素材以下の人権しかないという異常な状況が暴露されつつある中、12歳の長女への強姦で無罪判決が出たという報道でざわついていましたね。

※この記事には性犯罪の記述があるので気を付けて。

mainichi.jp

公判で検察側は、長女が約2年間にわたり、週3回の頻度で性交を強要されたと主張したが、伊東顕裁判長は、被告方が家族7人暮らしの上、狭小だったと指摘。「家族がひとりも被害者の声に気付かなかったというのはあまりに不自然、不合理」と退けた。

狭い家で誰も被害に気づかないというのはわりとよくあることです。脅された子供は生存を賭けて隠匿しますし、周りの人も気づきたくないという心理が働くのでしょう。関係が近ければ近いほど異常に気づけないことすら考慮できない福祉や司法はいい加減滅んでほしい。そして個人的な感情としては容疑者は残虐な方法で処刑されればいいのに。たぶん私はこの容疑者が火炙りにされるのなら大喜びで見物すると思います。

 

ただ、偽りの記憶というのも確かにあって、もしかしたら容疑者は検察の主張するようなことはしていないのかもしれないし、黒幕はほかにいるのかもしれない。真実は当事者の中にしか存在しません。

 

元被害者である私にとって、これだけ性犯罪と家族間の暴力に対して無知無関心な現状で、偽りの記憶について語るのは苦痛を伴うことです。複雑さに耐え切れない人たちが容疑者を断罪して終わりにしたい気持ちはよくわかります。でもやっぱり、真実は各自の心の中にしか存在しない。私は殺人事件の現行犯が捏造される過程を目撃したことがあります。目の前に血まみれの包丁を握った人がいるのにその人とは別の人が犯人にされてそれでつつがなく事態が収束していくのが田舎であり家族であり閉じた共同体です。そこでは真実に意味などなく、共同体の安定のために必要な物語が確定します。

私が受けた被害は私にとって揺るぎない真実であり私の人生を大きく歪めました。それは何をどうやっても動かしようがなくて、でもたぶんそれが真実かどうかに意味は無い。ただ私にとっての真実が醸成されうる環境がそこにあった、そのことだけが確かなことです。

私を加害した相手にも言い分はあるのでしょう。性被害は加害者の加害意識が希薄であることが多いのが特徴です。想像するだけでもおぞましいですが、彼の中で私は彼と楽しくセックスしたことになっているのかもしれない。でもそれはきっと、彼が品性下劣だからではなくて、そう思い込んで加害しなければいけない状況下に置かれたにすぎなくて、彼は加害者であると同時に構造の被害者ではあろうと思うのです。

 

私の受けた被害は少し特殊で、私は彼もまた苦悩していたことを知っています。それでもやはり、彼の苦悩に思いを馳せることは私にとって非常な苦痛を伴います。それはおそらく、加害者側の理屈を考えることが被害を否定することと同義ととらえられてしまう社会通念が原因です。泥酔した女性をレイプした男性は、ヤリサーの女性はフリー素材だと思っていたのかもしれない、なぜ彼はそのような思考に至ったのか、と考えることは、ヤリサーの女性がフリー素材であるという考えに合意するのと同義ではありません。むしろ真逆です。彼の歪んだ思考は頭ごなしに否定するほど強化されてゆきます。解体するには彼の思考回路を辿るしかない。

 

真実は人の数だけ存在して、真実が作られるに至る過程が存在する。真実を変えたいのならば各個人の思考過程を解体してゆくしかない。

それが人間の自我の形であれば、司法で『唯一の事実』を認定するのは人間にはマッチしない形式なのかもしれません。だけど現状の刑法ではただ罰を与え更生を強要するだけで犯罪を犯すに至った思考回路とそれを醸成する個人因子と環境因子には全く無関心です。これでは持って生まれた環境によって思想が確定し修正の機会の無いまま世間と衝突し続けるしかない。

個人的な感情としては、自分の犯した罪の重さを理解しない性犯罪者にはどんな厳罰でも足りません。ですがどんなに『厳罰』を与えてもおそらく私の求めている結果は得られずむしろ状況は悪化するのでしょう。ですから私は刑という発想自体の無効化を提案したい。これは刑罰を軽くする、まして性犯罪を軽く扱うという意味ではありません。加害者の思考そのものを変質させるという加害者の抹消、ある種洗脳と言ってもいいかもしれない。いや加害者だけではなく、「真実は一つであり悪者を罰したら全て解決する」と考える前時代の思考の人たち全てを一掃すべきという過激なリベラリズムです。

いい加減人類はアップデートする時期に来ているのではないでしょうか。