もしかしたら私はある種の難読的な学習障害風のなにかなのかもしれないという仮説の続き。
私の場合、だいたい何が書いてあるかが予想できれば大概の文章は読める。なんなら知らない言語でも読める。その上わりと頭がよいので、ほとんどの文章はだいたい何が書いてあるか予測できる。よってほぼすべての場合においてめちゃくちゃ理解度が高い。だから読解力はすごく高い。長文読解とか小論文とか100点があたりまえだし、どのあたりが難しいかすらわからん。
でも逆に、たとえば全く知らない曲の楽譜を読むことができない。ラとソすら見分けられない。万葉集でも祝詞でも読めるけど、何が書いてあるか予測できない文章においては文盲と言っていいくらいに読めない。
というところに気づいてからいろいろな人と話をしてみて、おそらく私は文章でも絵でも味覚でも音楽でも、とにかく莫大な意味を見出すタイプなのだろうという結論に至った。
以下オタク特有の早口なので興味ない人は読み飛ばしてください。要約すると「オタクは餌を与えられると際限なく意味を妄想する」ということです。
<読み飛ばし推奨ここから>
私はとうらぶのお小夜推しなんだけど、
お小夜の由来を調べて立ち絵を見て「あの笠は殺された女性の市女笠なんだろな」とか思うわけです。復讐を果たした息子の誉ではなく殺された母に心を砕く、だからお小夜は僧形をとる。息子が立派に仇討をしたからといって母親が生き返るわけではなくて、だからお小夜の「仇討」は終わっても「復讐」は何百年経っても終わらない。そんなお小夜にとって盗賊の刀として無辜の民を殺し続けた日々はどのようなものだったのでしょう。
とかをあのペラペラの立ち絵と5種類くらいしかないセリフから勝手に読み取るわけです。さらに、
そんなお小夜の兄は刀でありながら争いを忌避した江雪さん。お小夜の仇討はとうてい受け入れられないでしょう。そして江雪斎は守りたいものを守れなかったけれどお小夜を持った浪人は仇討を完遂した。そこにも忸怩たる思いがあるのだろう。
とかを公式セリフすらない江雪さんとお小夜で勝手に読み取ります。そして、
もう一人の兄である宗三さん。あの人「宗三」を名乗るんですよ義元じゃなくて。なんですかどの方面に対するツンデレですか。そんなの信長と見せかけて絶対義元に忠誠誓ってるじゃないですか。あとお小夜と江雪さんが青なのに宗三さんだけピンクで、でも片目だけ青とか…!焼けたからか。焼けたからなのか。それとも兄弟とあまりにかけ離れた来歴だからか。たった一つの青い目をいつも隠してるとかもう……!
とか、あとは歌仙さんとか黒田とか、お小夜関連だけでも怒涛のように考察が迸る。どう考えても運営はそんな設定つけてないんだけど、エサを与えられると際限なく妄想しだす腐女子の鏡。
FF7の中二ビジュアルが実はかなり奥深いのではないかという唐突な疑問 - 雑記帳
<読み飛ばし推奨ここまで>
という感じに私はとうらぶやFFを遊びます。ぶっちゃけゲームとかどうでもよくて設定資料集と薄い本だけあればいい。ゲームとしてのとうらぶは燦然と輝くクソでしかない。なんだあの脳死ゴリラが盆栽育ててるみたいなゲームはよ。FFだって単なる確率ゲーじゃん。最終的には弟にレベル上げしてもらってムービーだけ見てた。
でも、私みたいな見方をするタイプというのは実は結構少数派っぽいです。
大多数の人はお小夜の市女笠を見ても何も思わないし、あれが市女笠だと言われても「ふーん」で終わるし、その市女笠が殺された母親の物でとか言われても「へー」だしなんなら「エビデンスは?」とか言い出す。
鶴丸さんが落とし穴を掘るとか言っても「驚きが好きだから」で終わらせる。あんなの墓を暴かれたからに決まってるじゃないですか!なのに泥汚れは嫌がるとか、死にたいの死にたくないのどっちなの。むしろ穴を掘る口実に驚き云々という言い訳があるし、驚きが無ければ死ぬとか大丈夫なの鶴丸さん。
一期さんの髪の色は現在の大坂城の色とかも「ねーよw」てなる。だって「現在の」色ですよ一期さんがいたはずの時代のことはまるきし覚えてないけど律儀に現在のその場所を体現するとかどんだけ秀吉好きなの。秀吉に合わせて磨上げ云々という口上も捏造だらけだけど史実知ったら自我崩壊しないかい大丈夫かい。
だいたいの人は、なんかもう絵やセリフから妄想する情報量が圧倒的に少ない。
お小夜は青いチビで鶴丸さんはイケメンで一期さんはロイヤルでしかない。なのにどうしてそのキャラが好きとか嫌いとか言えるのか、彼らの好悪の基準がよく分からない。顔か。イケメン無罪か。じゃあなぜイケメンは無罪なのか彼らにとってイケメンはどのような意味があるのか問い詰めたくなるけど、彼らはそこに理由を見出さない。なぜだいったいなんなんだ彼らは何を見て何を考え何のために生きているんだ。
だけど彼らは私の納得できる理由を持ってはいない。ただイケメンだから好きで、そこに理由は無い。
理由は無いのに選ぶ基準があるってどういう状況なの。光は無いけど色はあるとか、質量は無いけど摩擦はある、みたいなことになってないかそれ。
本当はすべてのことに理由を見出す私の方が神を冒涜しているのだろう。仮に全ての存在に理由があったとしても、私ごときに理解できるようなものであるはずがない。なのに私は私に理解できる意味が付与されたものしか理解できない。意味が無いのに選択があるという状況を自分の中でどう位置付けるかを考えていくと彼らのことがより分かる気がする。
あと、どっかで書いた気がするけど、好きと得意は全然違う。(長くなったけど今回たぶんこれが本題)
私にとってとうらぶは脳死クソゲーだけど、そこを見切れない人はたまにいる。確率とか期待値とか全然分かってない。いやでもさすがにとうらぶの脳死感を理解できない人はあまりいないけど、FF程度の複雑さのゲームになると理解できない人は結構多い。私にとってFFは漢字練習のような反復作業にすぎないが彼らにとってのFFは数学オリンピック程度には熱中できるコンテンツとなりうる。むしろ私にとって予測不可能なくらい複雑なゲームはあまりに複雑すぎて彼らには複雑なことすら理解できない。逆に単なる運ゲーと思われてしまう。
彼らにとって楽しいと思える程度の複雑さというのは私にとってあまりに単純すぎて、なんだか大の大人に離乳食を与えているような気まずさがあるのだけれど、そういう程度のものを作れるようになったらわりと人間関係が捗ると思うので精進してゆきたい。