雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

弱者に依存する人たちの力学について

わりと人でなしなことを書きます。

 

よく障害者支援をしている支援者の人が「障害者にも生きる権利がある、障害者にも役割があって毎日喜びを持って暮らしている死ぬとか殺すとかもってのほか」みたいなことを主張するんですが、あれはあれで一つの病であるという視点を持って支援者の話を聞くことが大事なのではという話。

 

たとえばやたらに捨て猫を拾ってくる人、というのがいたとして、怪我してたり病気だったり死にかけてたりする猫を拾ってきて寝食削って面倒見て、猫にかかる医療費とか自分にかかる食費とか居住費とか経費諸々は家族と福祉に丸投げしてひたすら猫の面倒だけを見続けて、猫が元気になるとまたなんだかんだ理由をつけて新しい猫を拾ってくる、みたいな感じだとします。そういう人が「猫にも生きる権利がある、猫にも役割があって毎日喜びを持って暮らしている死ぬとか殺すとかもってのほか」とか言っていたら、じゃあ猫をばんばん拾ってみんなで世話するのが正義なのか問題。さらに「社会は猫を一匹残らず救うべき、重税を課して猫を救う施設を無制限に作れ」とか言い出したらそれは正義なのか問題。

猫に人生を捧げるのが趣味でそれで自分も周りの人も納得しているのなら別に構わないのですが、それを絶対正義のように他者に押し付けた時点で罪でしかないという自覚を前提として交渉のテーブルについてほしいものです。

teamaoi2003.com

知的障害がある人たちは、
誰かの自己実現のために存在するのだ

ああなんておぞましい。

なんで私が誰かの自己実現の肥やしにならねばならんのだ。

意志を表明できない他者を支配することでしか自己を実現できない人がいるということが私は恐ろしい。支配欲をすばらしいものただしいものとして保留無き肯定できてしまうその精神性が恐ろしい。

でも、彼ら(重度知的障害者)は、
知的障害という
与えられた環境を
素で受け止める人が多くいます。

もしや彼らはあなたの頭の中にしか存在しないのではありませんか。林先生案件では。私は重度知的障害者を見て幸せそうだと思ったことが一度もありません。私は私の苦痛を彼らに投影する。支援者は支援者の存在意義を彼らに投影する。知的障害者の意志を確認でき無い以上どちらも身勝手な投影であり、彼らが生きたいのか死にたいのかは誰にも分かりません。なのに「分からない」を出発点にせずに「私は彼らが生きていることでメリットを享受する=彼らは生きていたいに違いないこれは絶対正義だ」を何の疑問も無く恥ずかしげも無く主張できてしまうそのメンタル、個を前提とする現代にあまりにそぐわなすぎる。

支援者の頭の中では、障害者=支援者 であってそこが混然一体としている以上、刑事責任や民事責任や権利や義務が個人単位で発生すると考える現代の法制度が破綻するのは自明です。彼ら家族の絆とか連帯責任とか大好きだもんね。

 

自己決定権の認められない、刑事責任を負えない知的障害者には自由を保障すべきなのか問題というのはまずその問題以前に、自分の存在意義を他人のお世話に全振りして、世話すべき他人が存在しなくなると発狂しだす、でも自分の発狂をかたくなに認めない強迫性障害というか統合失調症というかなにか「そういう病気の人」が大声で主張している問題で、まずやるべきは立ちはだかる「何らかの病気の人」へのケアなんじゃないかと。

喚き散らす彼らを黙らせないことにはノイズが多すぎていつまでたっても本題に入れない。