雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

統合失調症の当事者に感じるうさんくささの正体

マンガ「ルックバック」に幻聴の聞こえる通り魔殺人犯が登場したときに、「幻聴は統合失調症の典型的な症状でありこの犯人は統合失調症。よってこのマンガは統合失調症への差別を助長する」みたいな主張をした人がいた件。

あの主張を含め、統合失調症をはじめとする一部のクラスタの主張に感じる違和感がなんなのか思い至ったので忘れないうちに書いとく。

たぶんあれ、幻聴を幻聴という症状だと思ってる感じが違和感なんだ。

幻聴は別に統合失調症や薬物中毒の専売特許ではなく、腹痛や歯痛と同じ誰でも起こる普遍的な状態で、その症状が出る理由があるから症状が出る。
だけど統合失調症患者やあと潔癖症とかもそうなんだけど、妄想や幻聴が存在するという前提で話をはじめてしまう人が多い。腹痛に対して痛み止めを飲むような違和感。それ違うよね盲腸とか胃潰瘍とかなんかしらの原因を治さないといくらロキソニン飲んでも意味無いてかむしろ悪化するよね、ていう。

脳がアドレナリン出しまくる妄想が捗りやすい体質というのはたぶんあって、それに対して投薬治療するのは大事だと思うんだ。でもそれは糖尿病が発症しやすい遺伝子に対してインスリンで対抗するみたいなもんで、それだけじゃなく食生活改善とかしなきゃ死ぬよね。



具体的には、「統合失調症を知ってもらいたい」とか言いながらいきなり「私には宇宙人の声が聞こえてて…」みたいなことを話し出すあの感じ。
おまえの頭に住んでるのが宇宙人でもミッキーでもだれでもいい心底興味ない。聞きたいのはそこじゃない。聞きたいのはなぜ宇宙人が住むに至ったかで、そこを分析できることが寛解と呼ばれる状態よな。
つまり
多大なストレス×ストレス耐性の弱さ×脳の暴走しやすさ×自己分析能力の低さ
の値が一定を超えた時に発症するんだろなって。
そして自己分析能力の低いひとはわりとたくさんいて、わりとギリギリのところでみんな暮らしてるんだろなという気づきでした。

現代に必要なのは共産主義なんじゃないかって

山奥に村を作って自給自足する的な。






まぁ私はそんな村から命懸けで逃げ出して、もし今後村に連れ戻される事があったら速やかに死を選ぶわけなんだけども。でも世の中の3割くらいの人にとって現代社会の自由と権利は荷が重すぎて、なんかしらの強制力のある管理された収容所みたいなのが求められているからこその陰謀論やらqアノンやらオウムやら自民党やら親学やらem菌やらプペルやら水からの伝言やら江戸しぐさやらなんだろうなと。変なのに捕まるくらいならあらかじめ無害なのを作っておいたほうがいい。

そしてついでに山奥にこもって自給自足生活は子育てが超絶ラク。親も子もラク。情緒も安定して賢い良い子になる。

だから自治体でコミューン的な村的なやつを用意して、子供をコミューン的なのにいつでも預けられるようにする。親が子供を預けてもいいし、子供本人の意思で家出してもいい。
児童相談所のような大人が子供の面倒を見る形式だとだいたいいつでも定員いっぱいで予約しても数ヶ月待ちになりがちだけど、コミューン的なやつの農作業要員としてであればだいたいいつでも受け入れ可能。
そもそも子供の面倒を大人がみるという形式が不幸の根源な気がする。子供は養育されることより自力で生活することに喜びを感じる。大人とちがって「おしごと」が大好きなのが子供。「おしごと」はしょせんおしごとであり大人の労働のような義務や責務を追わせるのは論外だけど、子供から「おしごと」を奪うのもまたひとつの虐待だと私は思う。

でもこれ老害にはわかんねーだろうな…
そして子なしにもわかんねーよな…

いつまでも子供目線でしかない子なしに理解できないのは当然として、
老害世代は自分の子供時代には放任されて時には児童労働させられたりして育ってきていて、労働を取り上げられた子供の苦悩は想像できず、また労働を取り上げられた子供を養育するのが人智を超えた苦行だということも知らない。だからワンオペ母に「専業で育児してるのに手抜きは甘え」とか残酷な事を言い放つ。
彼らは自分の時代の子育てがいかに楽で、現代子育てがいかに過酷か、気づかないままクソバイスを続ける。



いやまぁとりあえずスマホやオモチャが無くて全身を使う適度な農作業がある場所を行政が作ってそこに住みたい人はずっとそこに住んでいいよってことにするとだいぶいろんな人が幸せになりそう。発達障害とか人格障害とか最近話題になった境界知能とかの人も農作業コミュニティなら生きてけるってのはありそう。



共産主義の何がマズいかって総括や洗脳や暴力であって、それは閉じたコミュニティならどこでも発生するやつ(実際私の出身地は何の主義でもなかったけど洗脳も暴力もあった)なので閉鎖的集団に発生するバグに対するプロテクトをしっかり構築さえすれば共産主義の主義自体は問題ない。
内部の暴力や足抜けに対する暴力を無くすための三権分立的な監視さえしっかりすれば多くの人が幸せになれるんじゃないか。

魔の2歳時期を乗り越える(現実的ではない)方法

魔の2歳児は成長段階だからどうしようもない耐えるしかないみたいに言われてるけど、これは人類普遍の大変さではなく現代日本のハイテク少子化社会固有の要因が大きくて、現代日本は2歳児にとって過酷な場所なのではという素人の思いつき仮説。

じゃぁ2歳児にとって快適な社会とは何かと考えていくと、共産主義の自給自足コミュニティなんじゃないかと。アーミッシュ的な。
たぶん2歳児の癇癪は2つに分類できて、ひとつは普通にお菓子が食べたいとかオモチャが欲しいとかいう普通のわがまま。そして2つ目が「納豆ご飯が食べたいけどネバネバは嫌だ」「眠いけど目を閉じたくない」的な物理的に不可能なもの。


それで、1つ目の普通のワガママについては、「何かしら叶えられそうな願望」があってかつそれが叶えられないから発生するわけで、たとえば生まれてこの方1度もチョコレートを見たことがなければチョコレートが欲しくて泣きわめくことは不可能。だからお菓子もオモチャもお洋服も全て触れさせなければワガママは発生しえない。一切触れさせないのが無理でも暴露を減らすだけで十分効果があるので、たとえば家にテレビがなくて、買い物は生協の通販で済ませ、お菓子やオモチャ類を家から排除し、スーパーもおもちゃ屋もコンビニも行かず、同じようなご家庭の子とだけ遊ばせればいい。

そして2つ目のどうしようもないワガママについては、これはある程度どうしようもないが、実はこれは子の体調に大きく依存する。小さな子供は体調が悪いと露骨に気分のコントロールができなくなる。だから砂糖を一切使わず薄味にして雑味のある路地ものの有機野菜で味覚を育て農作業で体を鍛える。あと子の精神は刺激に弱い。テレビや動画のような単調で強い音と光で思考力が鈍る。だから電子音は一切聞かせない。伝統的な手遊び、工作、ビーズやおはじきや積み木などで様々な知的な感覚を育てる。木琴や太鼓など柔らかい音やシルクや麻や木綿の手触りや葉擦れや雨や虫の羽音に耳をすませる。
また子供同士の交流が好きな子、一人が好きな子、など、個体差に合わせて安心出来る場所を確保するのも大事。子供が安心できる場は個体差があるがひとつ確かなのは、大人が付きっきりであれこれ口出ししてくるのは1番最悪。つまり核家族で母親がワンオペ育児して周りは口を出すだけで手を貸さない現状は1番最悪かつ難易度もナイトメアになる。だから子供は親元から離して共同保育したほうが絶対圧倒的に楽。

とか考えていくと、共産主義で自給自足で外界と隔絶したコミューンが2歳児にとってベスト、と私は思ってる。




いやこれ現代日本の基準では普通に虐待案件だが。



閉じたコミューンはカルト化して内ゲバをはじめるのは歴史が証明しているので、子育てにベストなコミューンを作ろうぜ!と気楽に言えないところはあるけど、でももし内ゲバせずハラスメントや暴力もなく理想的な閉鎖的コミュニティが存在したら子育てはめちゃくちゃ楽だと思う。

私は別に共産主義でもなんでもないけど、子育てがあまりにも大変すぎて結果として閉鎖的な自給自足コミュニティみたいな生活を送っていた。
だってテレビみせたり砂糖を与えたりすると一気にくっっそ育てにくくなるんだもん。。
ほんとは普通にスーパー行きたかったし適当なお惣菜で済ませたかったけどスーパー行ったらひっくり返って泣きわめくじゃん。。。
たまにジジババに預けると甘やかされて手がつけられなくなるし。アンパンマンとかトーマスとかyoutubeとかに子守りさせると無限に欲しがるし。ならテレビは捨ててパソコンは子のいない仕事部屋に置いて多少高くてもシュタイナーやってるおハイソな幼稚園行かせて食材は全て通販で休日は子と一緒に家庭菜園して夜は絵本読み聞かせして木琴やハープ演奏して草木染めしてたほうが圧倒的にラク。。。。

そりゃスーパーもコンビニも行きたいし炭酸やジュースやチョコ食べたいしケーキ食いてぇぇぇ!晩御飯は惣菜で済ませてぇ!!可愛くて安い子供服着せてインスタ映えさせたいしディズニー連れてってやりたい!!!

けどそれをすると地獄の2歳児が出現するんだもん。無理。。。2歳児の圧倒的パワハラこわい。。。








結果として私の子は驚異的に道理の通じる2歳児として近隣に名を馳せた。どうやったらこんな賢くて良い子になるんですか?とやたら聞かれた。
よその子がやっと2語文を話しているころ「今日お弁当を持ってこなかったのはママがお弁当にプチトマトを入れたことが気に入らなくてこっそりお弁当をカバンから出したからである。ムシャクシャしてやった今は反省している。今後の対策としては子ちゃんみずからお弁当を作る事にしたいのだがどうか。冷凍食品を詰めるだけならば子ちゃんにもできるのではないか」とか「今日幼稚園に警察の人が来て交通ルールを教えてくれたため、今後は子ちゃん1人で外出しても安全が確保できると思うがどうか」とか言い出すくらいだった。やべえ。
よくある天才幼児描写は体は子供頭脳は大人、子供の体に大人の良識がつまっているというものだけどそういう感じではなく、サリーアン課題は年相応に間違えるしサンタさんも妖精さん普通にも信じるし、なんというか、月の住民がホモサピエンス初体験しているみたいな感じ。



そんな変な宗教みたいな育て方をしてしまって変な宗教の人みたいな子になってしまったらどうしようという心配はあったが、でも激務ワンオペ育児でメンヘラ母にはこれが限界だった。2歳児に耐えきれず怒鳴ったり叩いたり食事抜いたりするより変な宗教のがまだまし。
そしてティーンになった今彼女は、スマホを操り支部をあさり同人誌を買い推しに会うために旅行しのびのびオタ活する普通の子になったので結果モーマンタイ。よかった…








テレビやゲーセンやパチンコのような強い音や光、次から次へと出てくるカラフルで魅力的なオモチャ、みたいな現代日本の刺激に対応するのは産まれたての赤子には難しくて、できれば文明が無かったころの生活をして体と心を鍛えてから徐々に文明に慣れさせるほうが楽なんだと思う。実際圧倒的に楽だった。もはや文明は毒。ダメ絶対レベルの厄災。諸悪の根源。
というくらい文明の中での2歳児は悪魔化する。

文明が悪いというより未発達な幼児に文明は刺激が強すぎて、つまり幼児限定で文明を排除する育成空間を作り、成長に応じて段階的に文明化していくプログラムみたいなのがあるといいのでは。発達障害とかも軽度であればこの方法で苦労せず適応できそう。


でも私みたいにワンオペ母が1人で実行するのはあまりに犠牲にするものが大きくて、かつ他のご家庭のように「ひっくり返って泣きわめく子供をあやす疲労困憊した親」みたいな分かりやすい大変さは全然なくて、めちゃくちゃ育てやすい子を引き当てて子育てベリーイージーと思われて自分でもそう思ってしまって、てかたぶん私の周りの人は私のことを「ベリーイージー育児なくせに自然派ママみたいな変なこだわりを子に押し付けてた神経質で扱いにくい母親」と今でも思ってる節があって、報われねぇ。。。子育てしんどい

統合失調症が幻聴幻覚を『私物化』する弊害について

ジャンププラスで掲載された漫画「ルックバック」に統合失調症を思わせる幻聴幻覚をもつ殺人犯が登場したため、これは統合失調症への差別を助長すると騒いだ人がいて、さらにそこに精神科医斎藤環氏も懸念を表明して、最終的に殺人犯の動機が妄想から無敵の人に変更された件について。




藤本タツキ先生の『ルックバック』作品内の表現を修正、主に凶行の犯人の言動が"無敵の人"となる
https://togetter.com/li/1753639
[ ]


要約としては、
ルックバックを統合失調症だから差別!と主張している人達はあの殺人描写を『安易な幻聴描写』『殺人犯のステレオタイプとして何も考えず描写したに違いない』『練り込まれた物語のなかでここだけ安易な表現』『理不尽な死なら殺人でなく天災でも事故でもよかったはず』
というふうに断定していて、それはあまりに幻聴や妄想への理解がなさすぎじゃないか、その解像度では誰も得しないのでは、という懸念があるという話です。




まず、斎藤環氏の記事について。
「意思疎通できない殺人鬼」はどこにいるのか?
https://note.com/tamakisaito/n/nbeac7a25626b
私意思疎通できない狂人に殺されかけたことがあるんですがそれは。
そら私を襲った犯人だって診察室で大人しくしてる時には話も通じたでしょうよ。シロクマもそうだけど精神科医って自分がどんだけ下駄を履かされてるか自覚すらせず務まるとかさすがお医者様のお仕事は違いますなぁうらやましどす
そして斎藤環氏は今回の修正を支持してるみたいだけど、統合失調症は殺人者にしちゃダメだけど無敵の人はいいんか?無敵の人は精神科の顧客じゃないから問題ないてことか?



なんかもう今回の件発端になった人からしてうさんくささ満載で、精神疾患患者のことなんかよりPVのが大事な人達が湧いてるわけなんだけど、でもそれとは別に精神疾患当事者の懸念はたしかにあると思う。ただでさえ偏見にさらされているのにさらにそれが加速するかもしれない心配はたしかに存在していて、その心配を表明する権利も意義もある。
で、そっから先、今後精神疾患はどう扱われるべきなのか、みたいなのを私なりに考えてみた。




まず、幻聴は誰のものか問題について。

今回のルックバックの殺人犯が統合失調症への差別を加速させるから配慮しろと主張している人達は、統合失調症だから殺人したんじゃない、幻聴と殺人は無関係、という建付けで批判している。

また、あの殺人犯は理不尽な死の象徴であり、そこに幻聴描写は蛇足であるという解釈をしている。
それはそれで1つの解釈として間違いではないんだろう。その場合、ルックバックは「成功した創作者の貴重な才能が理不尽な死によって奪われた話」となる。かなり薄っぺらい。良くも悪くも努力友情勝利。

でも、私のような何者にもなれなかった努力友情勝利だけではどうもならない現実に打ちのめされた中年ババアにとってあの幻聴犯人は主人公たちなんかよりよっぽど突き刺さる。たぶん何かしらの創作をしたことがある人なら分かると思う。

「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」

創作の闇をこれほど端的に表す言葉があるだろうか。痛い。痛すぎる。まじむり闇堕ちしそう


でも私みたいな雑魚だけでなく私からみたらキラキラ大成功してるように見える神絵師も「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」瞬間がたぶんあって、各自がそれに対峙して折り合いをつけて生きていく、たぶんルックバックはそういうパンドラの箱の底の希望の話で、だからあの犯人ですら救われた世界線が描写される。




幻聴だから統合失調症!差別!修正しろ!みたいな言説は我々が向き合ってきた葛藤を全て「ビョーキ」に回収するもので、たぶん今回の件とその他の差別との1番の違いはここなんだと思う。

葛藤を表現することを規制して葛藤を「ビョーキの症状」に押し込めてしまえば、幻聴幻覚症状へは通院投薬しか手立てがなくなる。じゃぁ「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」精神状態に片足を突っ込んだ私の問題は投薬で解決するのかって言ったら、投薬は一時しのぎにはなっても根本的解決にはなんら寄与しないわけで。投薬だけで問題に向き合わなかったら一生薬漬けコースもありうるわけで。投薬は必須かもしれないけど投薬だけで解決もしない。
発熱はインフルの症状とか腹痛は虫垂炎の症状とかと同じノリで幻聴は統合失調症の症状、と断定してしまうことで葛藤が語れなくなり、解決できなくなる。


だから「幻聴は統合失調症の症状(だから軽々しく描写するな)」という主張は、統合失調症でない者からすると「私の葛藤を無かったことにするな」という反発を生むし、「幻聴は統合失調症の症状例外は認めない」というのはじゃぁ薬漬けになるしかないねという結論になり当事者のディスエンパワーメントになる。誰も得してない。



今回のルックバック騒動は、幻聴と統合失調症をノータイムで強固に結びつける言説を肯定し、統合失調症当事者の寛解の妨げになる呪いになってしまわないか。



精神疾患が一生治らなくて座敷牢に閉じ込めて置くしかないスティグマだった時代、精神疾患患者は怠けてるだけやる気出せば治ると信じこまれていた時代には、幻聴も妄想もうつ状態もれっきとした病気です!症状は患者さんのせいではなく病気のせいです!!という主張が必要だった。例えそれで薬だけに頼って薬漬けになろうとも薬を飲まないより何万倍もいい。(実際私もその風潮のおかげて精神科にアクセスできたので感謝している)
でも令和の時代にその思想はデメリットのほうが大きくなりつつある。もう一歩進んだ戦略が必要ではないか。


いやでもまじで、幻聴とか妄想とかほんと普通に発生するから。そんなのなった事ないって人はかなり幸せな人生を送ってきたか病識無いかの2択。わけわかんないこと言って暴れてる人はカワイソウなキチガイなんかでなくたまたまストレスを抱えちゃっただけの普通の人だから。
現実で起きた悲しい事件の犯人も、病気だから閉じ込めろとか極悪人だから厳罰を与えろとかではなんも解決しない。犯人にはそうなるしかなかった事情があって、誰もが犯人になりうる。だからこそ誰もが救済される必要がある。
という方向に持っていった方が全方位得すると思う。

己の中の2歳児と向き合う

「おいもが7つあります。3人で分けると、1人いくつでしょう」
みたいなのが全然わからない。冷静になってじっくり計算すれば分かるけどとっさに分からない。




多分私は幼児期から小学生くらいまでの知能と情緒の発達段階がごそっと抜けてる。抜けてるくせに中学高校大学レベルの発達はちゃんとできてる。積み木の城の土台がからっぽなのに上の方だけちゃんと積み上がってる。
幼稚園とか小学生とかほぼ行けてなかったから子供がなにを経験してなにを感じてなにを学ぶか全然分からないまま大人になってしまった。
まぁ勉強に関しては幸いなことに持ち前のハイスペックで事なきをえたし退屈すぎる田舎の小学生なんか行ってたら間違いなく不登校になってただろうから通えなくてむしろよかったまであるんだけど、問題は情緒のほう。


おいもがいくつもらえるか、なんて分からなくても大人生活が送れるけど、でもなんか根本的な原理というか原則みたいなのに対する信頼感が持てないまま生活をするのは心理的安全を損なうというか。
おいもが7つあって3人いたら、自分の取り分は2つくらいかな、という予測がないまま生きてると、ななつあるんだからななつもらえるでしょ!すくないなんてひどい!!って床にひっくり返って足バタバタさせて泣きわめきたい気持ちになる。
魔の2歳児でよくある、納豆ご飯を食べたいのにご飯に納豆をかけるとギャン泣きするってのよく分かる。納豆ご飯の味は欲しいけど白いご飯に茶色い納豆が乗ってるビジュアルは嫌。私が欲しいのは納豆ご飯の味であってビジュアルやネバネバみたいな余計なものを勝手に追加すんな!て毎回泣きたい。むしろ人生の9割はだいたいいつも泣きたい。

2歳児のくせにちゃんと大人してるの私偉い。

対策としては、大学以降の情緒と知能で処理できるハイスペ知能な集団に身を置くことで幼児性を排除して生活することなんだけど、でも普通はハイスペ知能は幼児性の土台の上に築かれるもので、ハイスペな人達も中身は幼児なので、親しくなればなるほど親密な交流が必要になって詰む。

己の中の2歳児を成長させられれば全て解決な気がするんだがどうやればいいのか。。ACとかで想定されてる「私の中に眠る傷ついた小さな子供」みたいなのとだいぶ違うぞこれ。
魔の2歳児で検索しても、ひたすら耐えるとかごまかすとか大人に向けた対処法しか無くて、ちがうんだ今私が知りたいのは2歳児本人が己の困難にどう立ち向かうかなんだ。2歳児当事者だけのピアカウンセリングとかないのか。あるわけないけど。


自殺反対とか最近の「ルックバック」統合失調症問題とか、「私なら死にたいはヘイトスピーチ」とか、障害福祉分野ってそういうとこあるよね。当事者の言葉を奪って『障害』に封じ込めようとする。そんな考え方をしてしまうのは障害のせいで、本人はそんなこと考えないはず!で口を塞ぐ。私は障害の外在化は問題を解決しないと考えているんだけど、かといってうつ病はやる気の問題とかそういう話でもなく、むしろうつ病をやる気の問題にするのは「外在化」じゃないかという、
いやもうこれ2歳児問題関係ないからまた別エントリにします。

子供に判断させる教育の是非

以前、「子供のころウサギを飼いたいと言ったら親がウサギの飼い方を調べるように命じられ、ノート3冊分調べた結果ウサギを飼うのは無理という結論に至った」という子供の頃の思い出ツイートが上がっててもやったので書く。


動物の場合、賃貸だとか転勤族だとか維持費がエグいとか生餌が用意できないとかワシントン条約にひっかかるとか、なにをどうやっても絶対飼えない条件がある場合があって、そういう場合は理由を話して諦めさせる。
だから私ならたぶん、子供にウサギの飼い方を調べるように言った時点で私自身はウサギを飼う覚悟は決めてる。子供が世話を放棄しても私が死ぬまで面倒みる。でも子供の年齢や能力によってはその私の判断は言わずにまず子供主体で調べさせてまずは子供に判断させることはあるかもしれない。
たぶんその場合、自分で調べて考えて判断する能力がある子供は「やっぱウサギを飼うの無理」という結論になる可能性は高いと思う。生き物を飼うなんて真面目に調べ思慮く責任感が強いほど躊躇う。未経験ならなおさら。
あと玉子の実験はさせるかな。生き物を飼うというのは世話の手間よりもむしろ時間を細切れにされて人生全てを捧げさせられることの苦痛のが遥かに重大だと思うから。
でもそしたら子供はもう確実にこんな大変なの無理飼えないってなる。



で、そしたら医療と生命倫理について話し合うかな。
母さんはウサギを飼えると思うし仮に子が世話を放棄しても母さんが最後まで面倒みれると思ってる。しかし母さんにとってウサギの世話は適切な広さのケージを用意し毎日餌と水をやり排泄物を処理する事のみであり、病気になっても濃厚治療はしない。言わば健康で文化的な最低限度の生活を提供することにしか責任を負わない。負えない。
ただしこれはあくまで母さんの考えであり、あなたが世話するのも病院に連れてくのも止めないし金のことなら(ある程度は)心配すんな
て言う。

でもこれわりと勇気いるやつかもしれない。私の子育てはまさに最低限度の生活を保証することしかやってきてなくて、それの是非を子に問うてる形になるわけで、これでオカンの飼育方法は信頼ならんとか言われたらやっばちょっとへこむかも。己の心理ままならねぇ。



たぶん自分で調べて自分で判断しなさいというのは無理な注文で、知らないことなんかどんだけ調べても仮説しかたてられない。やってみなきゃわからなくてやってみないと成功か失敗かわからなくて、でも生き物に関しては失敗だからって捨てるわけに行かないからその場合成功のハードルを限りなく下げておく、具体的には最低限度の世話を目標にし可能な限り自動化システム化して手抜きできるようにして、あとあんま大っぴらには言わないにしてもどこまで無理なら見捨てるかその場合どうやって見捨てるのかまで考えて予め見捨て方を調べておく。

改めて書いてみたら、子を、てか部下を育成するのにはものすごい丁寧なステップが必要。それをスキップしていきなり調べて行動して責任取れというのはパワハラだなと思いました。

藤本タツキ「ルックバック」によせて。突然幻覚と幻聴が起きた時のことを思い出したので書く。

都合悪いことはだいたい忘れる便利脳だけど思い出したので書いておく。

 

死ねとか殺せとか的な幻聴幻覚がやってきたときのことです。

※あくまでn=1

 

 

 

たぶん、「突然声が聞こえる」というのはマリオのスターを取ったような状態だと思う。ほかの人は地面をのそのそ歩いてるのに、私の思考スピードだけが突然速くなってしまう。「声」が最初にあるのではなくてまず「思考の激流」がある。普通「あいつ憎い」と思っても「あぁ憎いなぁ」程度までしか進まないけどスター状態だから「だから殺せ」まで、「あいつ妬ましい(俺の作品のパクリであってほしい)」が「俺の作品をパクったな!」まで一気に進む。

 

だから妄想の「思考の激流」をどんな方向を付けるか、妄想のごく初期ではある程度自分でコントロールできます。

激しい感情に意識を向けると激しくなるのでなるべくどうでもいいこと、アカクラゲってなんで不死なんだろ、とか、ペヤングって年間いくつくらい売れてんだろ、とか考えられれば少しはスピードダウンできる。

でもだいたい妄想がほとばしるときは切羽詰まったときで、たとえば目の前で怒鳴り散らされてるときに思考を反らすのはほぼ不可能。よって思考の激流化と妄想はほぼ同時に起きる。たぶん当事者はもちろん精神科医ですらここを切り分けてる人はほとんどいない。

ただ、一般の人に説明するにあたってここを切り分けて理解することがわりと有効な気がする。統合失調症というのは突然わけのわからない声が聞こえる病気ではなくて、普段抑圧している激情が表面化することであって、患者は異常者なわけではなく、幻覚幻聴の芽はだれでも持っている。

 

そういう意味で、「ルックバック」という漫画に出てきた殺人者の描写は統合失調症としてではなくて「創作者の誰もが持っている負の部分」の具現化で、だからこそ創作者を描くあの漫画において殺人者は災害でも通り魔でもなく「俺の作品をパクった」と主張しなくてはならなかった。あれは理不尽な死ではなく、創作する自分自身と地続きの存在による死だからこそ、創作に嫌悪を抱き創作を捨てる夢想をして(あるいは創作を捨てた並行世界が存在して)それでも嫌悪を内包しつつ前を向く話であって。

 

だから私はあれを精神疾患への差別を助長するような方向にもっていってほしくないなと思っています。

京アニの事件しかり、やまゆり園しかり、そのほかいろいろな事件を「頭のおかしい異常者のやったこと」として切り離してしまえば、「ルックバック」は差別を助長する表現となります。でもそうじゃなく、人間は追い詰められれば簡単に狂う。狂気の芽は誰もが等しく飼っていて、それとどう向き合っていくか、そういう方向性に持っていってほしい。

 

 

 

 

 

 

ここから自分用記録。

私の幻覚幻聴ですが、怒声と暴力の飛び交うめちゃくちゃな修羅場で疲労が限界突破したときに起こりました。

普段めんどくさくなると気絶して強制終了するので、場数を踏んでる割に経験値が少ない。でも気楽に気絶できるのは私の生への執着が極端に薄いからで、なんかもう周りがヒートアップしてるといろいろどうでもよくなってきて、もう好きにしちゃっていいから決まったら起こして。みたいになる。

でもそのときは私一人の問題ですまなくて、私が死ねばこいつらも死ぬ、ここで死ぬわけにはいかん、みたいなわりと人生初の状態で、経験値ゼロのくせに修羅場に飛び込んでしまったのでアドレナリン的なものがどばっと出すぎてスター状態になった。

 

なんか、ざざーっと無意味な音声が聞こえる、というか、聞こえるはず、というか、なんというか、ジョーズのポスターを見たら脳内で「デーデン♪」が自動再生されるみたいな、「ここにこの音入るやろ!用意しといたやで!!」と脳が勝手に幻聴を再生しだす、みたいな。レモンをみたら唾液が出るのと似てるかも。

それでまぁその時、目の前に怒鳴り散らす人がいたんですが、「この人の顔って節分の鬼のお面に似てるなぁ」と思ったら脳が「よっしゃこの人鬼な!顔のところに鬼の画像貼っといたる!」みたいな。もう最終的に全ての人類が鬼、みたいなところまで思考が飛躍する。

それで怒鳴り散らしてる人が「殺してやる」的なことを口走ったら脳が「おっ殺されるやで!こいつ刃物振り回すやで!」と勝手に刃物と血しぶきの画像を追加する、みたいな感じでどんどんどんどん余計な画像が増えていってしまいには何が現実で何が私の脳が作り出したものか区別がつかなくなって、周りの人全員鬼の顔に見えて誰が誰だか分からなくなってきて、なんかもういろいろめんどくさくなって強めの睡眠薬を飲んで強制終了した。どうにでもなーれ☆

つかみ合いの修羅場の中突然カバンから睡眠薬を出してかみ砕いて意識を落とすという伝説ムーブをかましたせいでいまだに仲間内でネタにされるけど、でもあんなんめんどくさい以外何物でもないじゃん。疲れてたし。むしろみんなよくあんなのにいちいちつきあってあげれるね?

そのあと目が覚めたら病院で、でもまさかの内科に運ばれてて、なんでや、ってなった。内科だと早く退院できていいけど。後でちゃんと精神科も行ったけど高ストレスによる一時的なものでしょうで済まされた。

 

教訓としては、あのときの敗因は「守るべきものがある」と思ってしまったことなので、人間いつなんどきでも自分と自分の守りたいものを放棄して逃避してもよいように覚悟を決めておくのが精神安定の秘訣かなと思います。