相模原大量虐殺事件についていろいろな人がいろいろなことを書いているけど、どうもみんな論点がブレていて、かつてのアシュリー論争を思い起こさせる様相を呈している。
この事件でクローズアップされた「障害者は死ね」という言説に対してどう考えどう対処していくかという問題を考えるために、まずこの文脈で使われている『障害者』という単語をもう少し詳しく定義する必要がある。
障害者の定義なんて深く考えれば非常に難しい部分だけど、とりあえず最低限『重度障害者』と『軽、中度障害者』は分けて考えよう。
そして今回死ねと言われているのは重度障害者だ。
まず最低限この点は分かって議論してほしい。
↓こちらの人とか、このあたりを混同している気がするんだよね。
社会保障削減で困るのは主に中軽度の障害者だ。それはそれで重要な問題だが、相模原虐殺事件の犯人は別に障害者全て死ねと言っているわけではない。あくまで重度障害者に対して死ねと言っている。
そして2番目の問題は、現場を知っている人と知らない人の間で『重度障害者』という言葉に対して抱くイメージが乖離しすぎていること。
人間は誰だって精神障害にも身体障害にも難病患者にもなりうる。いつ事故で半身不随になるかもしれないし、脳に重大な障害を負うかもしれない。企業で働いていれば、メンタルを病んで辞めていく同僚を一人くらいは見ているはずである。たとえ何もなくても、年を取れば必然的に身体は不自由になるし、認知症にだってなるかもしれない。ガンなど、生涯ならずに済む者のほうが少数だろう。要するに彼らには、自分もいつか公的支援を必要とする弱者になるかもしれないという、当たり前の想像力が欠落しているのだ。
いや、そうだよ。その通り。人は誰しも障害者になる。
だけど、この人は本当に、自分が重度障害者になったときに長生きしたいと思うのだろうか、というのは素朴な疑問だ。
軽度障害なら生きたいという気持ちも分かる。車椅子に乗って病院の庭を散歩できる程度の軽い障害であれば積極的に死にたいとは思わない人も多いだろう。
でも、重度障害だよ?
最近の医学は気持ち悪いぐらい進歩していて、昔なら即死だった人を何十年も生かすことができる。ただ機械に繋がれて呼吸をして心臓を動かしているだけの生をリアルに想像したことはあるだろうか。
ずーーとベットに寝たきりで、床ずれで背中ただれてオムツして食事は介護士に口に詰め込まれても、それでも長生きしたい?本もテレビも見れないし誰ともしゃべれなくてただひたすら黙って何十年も白い天井を見ながら介護士の暴言を聞く人生は楽しい?
加えて重度障害は、ただ動けなくなるだけではない。
人間、ケガをすれば痛いし病気になれば苦しい。重度障害があるということはその苦しさが生きている間中ずっと続くということだ。病気や障害を考慮しないとしても、口や尿道に管を突っ込まれるのが痛そうというのくらいは想像が付くだろう。そんな苦しい思いをして、しかも寝たきりで何もできないし誰ともコミュニケーション取れない。
それでも、長生きしたい??
ちょっとその感性は正直よくわかんない。
でも、私は他者を、私の基準では理解できないからと言って否定はしない。
どんなに重い障害があっても、変形した体をベットに縛り付けられて顎が外れるまで叫び続けても、それでも長生きしたいという人が本当に存在するなら、その希望を尊重できる社会であってほしい。
代わりに、自殺したい人が死ぬ権利を認めてほしいし、重度障害者が死にたいと思っているのではないかという議論を否定しないでほしい。自分の感性以外を抹殺するファシズム的思考を持っているのでなければ。
これだけ医療が発達してしまったのだから、障害や福祉について考えるときに中軽度障害と最重度障害を混同していてはいつまでたっても話が進まない。