雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

多重人格の内面世界

言葉を含め人間の持ちうる伝達手段は全て、メロディは伝えることはできても和音を伝えることはできない。人間の喉は「ド」と「ミ」の音を別々に発することはできても「ド+ミ」の和音を発することはできない。(正確には、喉が発生した音を解析する脳は和音を受け取れない)

言葉は一つにつき一つの意味しか伝えられなくて、たとえば「愛」と「憎しみ」を同時に伝えることはできない。「愛」と言う言葉を発している瞬間は「憎しみ」は無かったことにされ「憎しみ」という言葉を発している瞬間は「愛」はかき消される。

 

我々の耳は複雑な和音を聞き取ってしまうし我々の心には愛と憎しみを同時に生じてしまう。それなのに、和音を表現する方法はいまのところ存在しない。

 

 

 

インプットと昇華までは自分の中だけで行われるから、そこでの制限は自分の能力だけだ。能力が高ければどこまででも高みに上ってゆける。だけど自分が得た情報を誰かに伝える、アウトプットの段階では他者に伝えられる形に変えなければいけない。ここでは自分の能力ではなくて受け手である他者の能力が制限因子となる。

インプットの時点でどんなに高感度でも、受け取った情報を自分の中で分析する能力があっても、アウトプットの時点では社会的制約を受けざるを得ない。

 

並立する和音を他者に伝える手段として、多重人格というパーソナリティは存在するのだと思う。

 

私にとっての多重人格がDMS的な解離性同一性障害と同じものかという疑念は残るので一般化はできないのかもしれないが、少なくとも私はそう捉えている。

インプットの時点では愛と憎しみは和音として存在する。そしてできればアウトプットにおいても和音として表現したいのだけどその方法は現時点では存在しないから、まるで一人の人間の中に「愛している人格」と「憎んでいる人格」が同居しているかのように捉えられてしまう。