星野源氏が言っていた
星野源が持論 「人見知り」と伝えることは「気を使ってください」と言っていることと同じ
相手に「すっごい失礼」「何様なんだ」と感じるようになった
という発言が私にとってはめちゃくちゃ不愉快だしこれは怒っていいと思うんだけどみんなわりと容認してて、どういうことなのかなと思ってみた。
星野氏の発言を容認する人は人見知りカミングアウトをする他人あるいは自分自身に対して常々苦々しい思いを抱いているからこそ彼の発言を支持している。それが自分に向かったものであれば「私も人見知りカミングアウトで相手に不愉快な気分にさせてるかも」になるし他人に向かったものであれば「あいつの人見知り発言で俺は不愉快になった」になるけど本質は同じ。
「私はこのような事情がある、だから配慮してくれ」と表明されることに嫌悪を感じまた自分が表明することを遠慮する精神状態はちょっとやばい。ていうか努力や我慢が普通になりすぎてやばい人多すぎ。もっと頼ったり頼られたり気楽に生きればいいじゃん。
以前、ヨシケイの宅配サービスを頼む人は毎食きちんとした食事をしなければいけないという強迫観念に取り付かれているという記事を書いた。
まぁ宅配サービスに関しては超田舎でスーパーが無いとか怪我してて外出できないとかで普通に需要もあるんだろうけど、とくに理由が無いのに買い物いけないくらい忙しいならちゃんとした食事を作る必要ないじゃん。料理する時間がないならニンジン丸かじりとかしてればいいじゃん。おいしいよニンジン。
まぁ、この人見知り関連発言で星野氏が言いたいことはなんとなくわかる。
まず前提として、
- 人見知りカミングアウトをすると「この人は人見知りだからあんまり話を振らないであげよう」という気配りをされる。
でも
- 星野氏は「あんまり話を振らないであげよう」という気遣いを受けるのがどうにもしっくりこなかった。むしろ話をするのは大好きだ。
だから
- 人見知りカミングアウトをせずにがんがん話を振られることを選択した
てことでしょ。自分にとってしっくりくる待遇を得るためにセルフプロデュースしましたよってことでしかない。星野氏にとって「人見知りカミングアウト」はしっくりこなかったというだけで「人見知りカミングアウト」自体を失礼だとか何様だとかディスるのどうなの。
私はたくあんが嫌いなんだけど、だったら「たくあん好きな人はすっごい失礼、何様かと」とか言っていいわけ?
自分を追い詰めるのが正義、みたいな体育会系マッチョな発想なのか何なのか、自分自身に向けた否定や暴力に鈍感になっている人が多い。他人は殴ってもいいけど自分は殴ってよし、むしろ自分を殴るのが美徳、みたいな。
でもたとえ自分自身に向けたものであっても否定的な言葉を使う人を私は信用しない。否定的な言葉を使うというのはつまり言葉の暴力であって、そりゃ他人を殴るのもいけないけど自分を殴る行為だって見せられたくないじゃない。公共の電波で自傷行為を見せられるのはやっぱ不愉快だ。
彼らはそうやって他人にも自分にも監視の目を光らせて疲弊し続ける。ああいやだ。
なんか、みんな真面目すぎ。
いーじゃんべつにコミュ力なくても。失礼でも。気遣いを強要しても。お互い様じゃんそんなの。どうせ人間なんて生きてるだけで多大な迷惑かけ続ける生き物なんだから、いまさら多少の迷惑なんて誤差の範囲じゃん。そこくよくよ気にして無理にコミュ充のふりして消耗して病気になるほうがよっぽど迷惑。だったらあちこちに迷惑かけまくりながら楽しく生きててくれたほうがまだ迷惑度が低い。
くらい気楽に生きたほうがよくね?