雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

瞑想運動野菜350gを実践すると死にたくなるシンドロームを分析してみた

いろいろ思うところがあってやたらリア充な集団に所属してみたときに結構なあれ未遂(検索除けのため曖昧表現)とか、そんな具合に相当病んだことがあって、あれいったいなんだったんだろうというのを分析してみた。

 

そのころ私は日が昇ったら起きて作業して日が沈んだら夕ご飯食べて寝るという森田療法みたいな生活をしていて周りの人たちはみんないいひとばっかりで会話は励ましや承認ばかりという相当イカれた生活をしていて、普通に考えて死にたくなる要素は特になかったはずなんだけどなんだか相当病んでしまった。

 

で、その理由はたぶん、自分の考えやたことや感じたことを制限なしに表現することを禁じられたからなのではないかと思う。

彼らはとても前向きで善良で勤勉で寛大で、不誠実に対して徹底的に不寛容だった。

彼らは寛大だったから、私が死にたいとか死ねとか言っても責めたりはしない。ただ徹底的に話を聞かない。私が何を言っても友愛と奇跡の話にすり替えられる。

 

表出に制限がかかると思った以上に思考の幅が狭まる。

よくあるゲームで、「色の名前を言ってはいけない」とか「外来語を使ってはいけない」とか簡単な制限をかけて会話してみるというのがあるけど、そんな簡単な制限があるだけでびっくりするほど説明が下手になる。禁止事項を意識することにメモリをくって処理が遅くなる感じ。

あと母国語以外で討論してみたりすると分かりやすいかもしれない。

この間英語で話していた時に「柱」って単語が言えなくてうぐぐってなった。別に柱の話全く関係なかったんだけど柱って言えないだけで3割くらいしかしゃべれなかった。

 

あなたにはあなたにしかできない仕事があるのよ必要とされているのだからあなたは生きるべきあなたが憎む人にもその人の仕事があるのよあなたはそれに嫉妬しているのだわあなたが持たざる者であることは恥ずべきことではないしまして他者に嫉妬として向けるべきものではないあたなのような持たざるもの愚かなものにも成し遂げるべき仕事が必ずみつかります人を憎むことしかしらないあなたに救いがありますように

 

きも!

じんましん出るわこんなん。

あとこんなに詳しく書いちゃうと私の所属していた団体を特定できてしまう人もいるかもしれないですね。きもいとか言ってすみません。私には合わなかっただけです。

関係ないけどアーメンって本来「それな!」て意味なんだそうで。めっちゃ誤用してたぞあいつら。

 

 

正直宗教ナメてた。

何一つ絶対に承認されないというのもなかなかきついものがあるけど、承認を奪われるというのはもっとすごいやつを体験済みだったからいけるよなって気軽に思ってた。ていうか私承認欲求は薄い方なんでそっち方面はわりと平気。

私がきつかったのは、承認が満たされないことよりも思考のツールを奪われることだったのだと思う。

だれも話聞いてくれないんだったら勝手に一人で実験して一人で論文書けばいい。だけど実験をすることを禁じられると思考を深めることができなくて病む。

 

他の人はどうだか良く知らないけど、少なくとも私は自分ひとりで考えるということができない。というか、自分ひとりの頭の中にあることを現実世界に反映させるためには現実での実験が不可欠、と言うべきか。

そういうのは哲学や思想に限らずすべての科学において平等な法則で、下町ボブスレーだってPCの中のシュミレーションだけではよいものが作れなくて広大な試験場で実際に滑らせてみるまで結果が分からない。頭の中で理屈をこねまわしているだけではなにも始まらない。だから、一切の制限なく思考を表出するというのは人間においてもっとも根源的な活動だと思う。

 

思考の中にはマイナスのものもあって、このブログに私がよく書いているような障害者死ねだとか馬鹿は滅びろだとかオッサンは全員レイプされろだとかそういうのも思考の表出という意味では平等でありそれらを制限するということは人間であることを放棄することだと私は思ってる。

ただここで間違えてはいけないのは、表出と伝達は違うということで、誰も見ないような辺境のブログで呪いを吐いている分にはギリギリセーフあるいはギリギリアウト程度だけど当事者である障害者や馬鹿やオッサンに直接死ねとか馬鹿とか言いに行くと復讐されるので悪手だと思う。馬鹿を駆逐したいならもっとうまくやらないと。

 

「みんな馬鹿ばっか」とか

「みんな嬉々として障害者を延命したがるけど、私にはむしろ死を選ばせないことこそが残酷に思える」とか

「オッサンは優遇されすぎて社会的弱者を平然と踏みにじるからいったん社会的弱者を体験すれば共通の前提が構築されるのではないか」とか

とかそんなにただの事実確認じゃん。自分と他人の認識の齟齬を確認するというのはコミュニケーションの基礎じゃん。そこに断絶がある、その断絶を内包したままどのように共存するか、て話じゃん。そこ確認もせずに自分の認識を他人にゴリ押しするほうが相当残酷なことしてるという自覚が彼らには欠如している。

 

これひっくりかえして考えると

「みんな馬鹿ばっかで私だけが正解を知っている」という前提なしにたとえば東大生とかに全力で学問の話振られたら嫌な気持ちになるよね。

「世の中の大半の人は己よりも知識が少なく理解も遅い、それがたとえその道の権威と呼ばれるオッサンでも、ときに己のはるかに優れている。そして彼らはそのちっぽけな知識にプライドをかけている」という前提を常に胸に刻むことが天才にとって他者を尊重するということだ。

なのにそれやると驕るなとか嫉妬だとか人類みな兄弟だとか言われる。まじ死ね。

 

それとか

「みんな嬉々として障害者を世話するけど、私には彼らは死にたがっているようにしかみえない」という感性を否定する、という現象をひっくり返すと

「障害者はみな死にたがってるから速攻殺す、世話するとかありえない」って言ってどんどん殺してるのと同じよ?「そんなのおかしい、障害があったって生きていたい人もいるはずだ」って言っても「障害者を生かすなんて犯罪」とか言われて精神病院にぶちこまれる社会。

善良でボランタリィ精神あふれる彼らがやってることって障害者虐殺してるのと同じくらい罪深いことなのに、彼らは自らの加害性をかたくなに認めようとしない。

 

ほんとに心底馬鹿すぎて嫌になる。

たぶん彼らは複数の並立する信条を認めることができるほど脳のメモリが多くない。だから自分の信条こそが正しいと信じ込み何のためらいもなく他者を抹殺する。彼らの脳は3bitくらいの容量しかないのだろう。

こういうワンセンテンスにまとめないと理解できない人こそ発達障害として大々的に宣伝して向精神薬ぶちこまれておとなしくなればいいのに。

 

いや恨みが爆発して話がそれたけど。

 

死ねとか憎いとかも大事な感情の一つだから、そこを抑圧しちゃうとわけのわからないモンスターが産まれちゃうよね、という話でした。

別に理解してくれなくていいし、承認もしてくれなくていい。ていうかこっそりつぶやくから聞きたくないなら聞いてくれなくていい。ただ表出することは許容しない人はいつかモンスターに踏みつぶされるだろうなと思う。ざーまみろ。