雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

多重人格は感情をどう扱うかという与太話

はじめに。この文章を書いている私は多重人格を自称しています。私の多重人格が一般に言われるところの解離性同一性障害なのかは私には分かりません。解離の第一人者に「おまえみたいなやつはじめてみたww」みたいなことを言われました。まぁなんというかそういう怪しいやつなので話半分で読んでください。

 

 

 

最近「タンスの角に足の小指をぶつけて超痛かった」的な話をナチュラルにできるようになりました。「虫刺されたかゆい」とか「味噌汁で舌を火傷した」とか。このブログでも「あいつら憎い」「まじ死ね」とかいう文章を書けるようになってきた。

 

でも、今この文章を書いている『私』は痛いとか憎いとかそういうのがあんまりよく分かっていません。必要であればタンスの角に足の小指をぶつけて大げさに痛がるそぶりができるけど、それはあくまで演技であって痛いそぶりを見せる意味がよく分からない。タンスの角にぶつけたことで足の小指の組織にどの程度の侵襲があったかというのは知覚できるけど、それと「いってぇぇ」とか言って涙目でうずくまるという行為がいまいち結びつかない。

 

痛いとかおなかすいたとか疲れたとかむかつくとかあいつまじ許さんとか、そういう感情は個人レベルでは邪魔でしかありません。よく「痛いということが分からなければ加減が分からないから大怪我して死ぬ」とか言われるけど、それは感情と知覚を混同しています。痛いという感情が分からなくてもどの程度の怪我をしたのかが分かる知覚があれば問題ないわけです。むしろ痛みによって行動が制限されたり、正常な判断ができなくなるリスクのが大きい。

 

だから私は情動は自分のためではなくて他人を納得させるための機構だという立場をとっています。

にこにこしている人は友好的、イライラしている人は攻撃的、だからイライラしてる人に近づかなければ安全、みたいなライフハックがあるからこそ我々は人ごみを平然と歩くことができます。通りすがりの人が何の前触れもなく殴りかかってくることはなくて、殴りかかるまえになんらかの威嚇や示威があるはず。野良犬だって突然噛みつくのではなくて唸ったり吠えたりします。

感情を表出しないということはこの社会の約束事を反故にすることなので、何の前触れも理由もなく襲ってくるゾンビのような恐怖を与えます。ヒッチコックの映画がなぜ怖いかというと鳥が襲ってくるのかが分からないからです。鳥が人を襲う理由があってそれに対処する映画であればただの害獣駆除であって恐怖映画にはなりえない。

 

大概の人は感情と知覚を区別できていないので、感情が完全に抜け落ちた人に対峙した経験を持つ人はそれほど多くないようです。だから感情が欠落した他者に感じる根源的な恐怖と狂気の存在もあまり知られていなくて、どう説明すれば伝わるかちょっとよく分からないのですが。

でもまじ怖いよあれ。私が言うのもなんだけど。なにするか予測つかないってめっちゃこわい。人食い鳥を駆除すればOKだぜ!みたいな明確なゴールがないからこの世のすべてを抹消するまで安心できないという底なし沼感がこわい。

 

なので、自分のためではなく他人のために感情を演じるようにしています。おかげで人間関係が円満になりました。めでたしめでたし。

でもこれは私としては一人で勝手に演劇をやってる状態なのできっつい。周りは普通なのに自分ひとりだけ歌って踊って宝塚ミュージカルやってるみたいな気分。正解が分からないから常に周りの顔色をうかがいながら常時ミュージカル。なにこれ普通に病む。

 

私という人格にもうちょっと感情が添加されればいいのかなとも思うけど、どうやれば感情って作れんのかわからない。それに感情に振り回されてる人たちを見てると、オートで感情が発動するというのも考え物だなぁという気もするし。ていうかそもそも私はめんどくさい感情をすべて切り捨てて合理のみで動けるからこそ私なんで、感情なんてあったら多分私は私じゃなくなる。

もう役者に徹するしかないかぁ。すごい馬鹿みたいだけど。なんかドンキホーテの気分。