雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

多様性の許容は、殴られても我慢することではない

子供がコンビニに行ったら店員さんに突然暴言を吐かれて問い詰めたらその店員さんの妄想由来の暴言だったという話が上がっていました。作者の人の結論としては、妄想由来の暴言を吐く店員さんのことも受け入れるのが多様性というオチでしたがそれはすごくずれているよという話を書きます。

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多様な人を受け入れられる社会というのは、自分もまた排斥されない安心感とともに生きていける社会でもあります。もちろん程度問題ではありますが、このメリットを享受することと引き換えに、私たちは全員が少しずつ他者に配慮する、と同時に、ちょっとした不測の事態に直面したとしても、なんとか自分で自分の心を守り抜く、そのための強さを育てていく必要があるのだろうと思います。

 

気に食わない奴を殴る権利を保障するということは、殴りたくなるほどのストレスは一切改善しないという宣言と同等です。

暴言を吐く店員さんを許容するというのは、

『痴漢は女性のお尻に触っていいよ、まぁストレスの現況である満員電車も残業もパワハラブラック企業も一切改善しないけどね!』と同じです。皆さん大嫌いな多様性の拒絶、エセ保守と同じことを言ってしまっています。

 

 

なんというか、妄想由来の攻撃をアトピーとかワキガみたいなどうしようもないものと混同しているのかな?

上記の文章がたとえばアトピーでどんなに治療してもどうしても皮膚が爛れて異臭を発してしまう人に向けてのものだったらまっとうなものだと思う。見た目が違うとか言動が違うとかいった異質が隣人として在ることを許容する社会でないと困る。見た目や言動が目立つと接客業ができないという現在の風潮は変わったほうがいい。

これはICF国際生活機能分類)で言うところの個人因子の部分にあたります。個人の特性はどうしようもないし無理に変えるべきではない。

 

でも、妄想由来で暴言を吐いてしまうというのは、痴漢がどうしてもお尻を触ってしまうのと同じ状況です。

 

コンビニ店員さんにとってのベストは妄想由来の暴言を吐きながら仕事を続けることを尊重されることではありません。

妄想的な認識をしがちであるという性格は気質は個人因子なので尊重すべきところです。ですがこの個人因子が接客という高ストレスな仕事や低賃金やその他の理由との相性が悪く、暴言という困りごとに発展してしまっているという現状には改善の余地があります。我々がすべきことは困りごとの発生するシステムを『尊重』することではなくその人を取り巻く困難な状況を改善しその人の本質を『尊重』することです。

 

そういう人達が迷惑だからと、そうでない人の力で社会から排斥するのは簡単です。でも、それは同時に、ほんの少し逸脱すれば自分もまた、社会から簡単に排斥されてしまうリスクを負う、ということでもあります。

だから、攻撃的な妄想を他者に向けてしまうほどストレスを抱いている店員さんに抗議し店員さんの上司や会社や福祉に何らかの改善を要求するというのは『排斥』ではありません。むしろ現状を受け入れることこそが店員さんにとっての排斥です。

 

 

以前LGBTの権利を認めるなら痴漢がお尻を触る行為も認めるべきだというとんでもない言説が話題になりましたが、これも個人因子と障害全体を混同しています。

LGBTであること、女性のお尻を触りたくなること、小さい子供とセックスしたくなること、などの個人因子は尊重されるべきです。ですが痴漢の被害者を発生させてまで自分の欲望を満たそうとせざるをえない無茶な環境は断固として排斥すべきです。痴漢に必要なのは触る権利などというふざけたものではなく、休養とカウンセリングと生活の保障です。

 

そのあたりを誤解している人がたぶんいっぱいいて、リベラルが毛嫌いされる一因になっているような気がします。他人を受け入れることは無抵抗で殴られることではありません。加害者もまた構造の被害者です。

みたいなことをちゃんと考えていく必要があるのだと思いました。