雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

安楽死に関して、理性とお気持ちを混同して語るのをやめよう

もうやめてくれ。ほんといいかげんにして。安楽死反対派は自分たちが何を言っているのか十分検討して。せめて人殺しの顔をしろ。

田舎のよくわからない宗教のご神体なんていういかれたものをやっていた私としてはお気持ちを尊重されるということの恐ろしさと残忍さ狡猾さは身に染みているのですが、たぶん普通の人はお気持ちと理性をもうちょっと分けて考えて考えるトレーニングをしたほうがいいと思う。

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この記事を読んで、やっぱ透析患者が死にたい殺してくれと言っても一時的な錯乱とみなして無理やりにでも治療すべきとか言い出しちゃうんだろうなー!と思ったら案の定でわりと死にたい。殺すということは生きたいという気持ちを否定することですが、生かすということは死にたいという気持ちを否定することで両者は平等です。死ねば終わりだけど生きる苦痛は続くのでむしろ生かす方が罪深い。

 

理性は一貫性を保とうとするけれど、お気持ちは一貫性なくころころ変わりるしそれをコントロールすることはできません。とくに生命の危機が迫ると、どんな聖人君子でもお気持ち最優先になります。でもそれは死の間際の緩和ケアに失敗したというだけにすぎなくて、別に意志が弱いからではなくて単に筋弛緩剤が足りなかっただけです。もっと気前よく毒薬を注射しておけばあっさり死ねたのにお気の毒というだけ。患者の内面ではなくて医師の腕前の問題です。

自我と個の曖昧な中世ジャップランドで患者という立場に落とされるということは、理性を全て無視されることと同義です。親切に話を聞いてくれる、希望を叶えてくれる、だけどそれはすべてお気持ちで、理性の訴えは踏みにじられる。これが虐待でなければ何が虐待でしょう。現場も本人も疲弊して苦痛なばかりで誰も得してない。

 

前回の記事にも書いたのですが、お気持ちは実行されないことで尊重されます。

きちんと書類も書いて弁護士もたてて万全の用意をしても、うっかり一言「死にたくない」と行ってしまえば全てが覆されるという状況では安心してお気持ち表明できません。死にそうな朦朧とした意識の中で余計なことを口走らないようにすることだけに全力を注がなければいけなくなる。揺れ動くお気持ちは尊重されないからこそ気楽に表出できます。だから必要なのはお気持ちを汲み取ることでは絶対にない。お気持ちは傾聴してケアするものであって行動の基準にしてはいけない。

 

たぶん普通の生活をしている現代の日本人はお気持ちの扱いがすごく下手なんだと思う。健常者のお気持ちは完璧に抑圧するのがあたりまえで、その反動として患者のお気持ちは全て実行しなければいけない、というペットのダメな飼い方みたいになっている。普段は隠されているお気持ちをむき出しにする患者を目の当たりにするとどうしていいかわからなくなってしまうのでしょう。

お気持ちなんてのは犬猫と一緒で、狭い部屋にずっと閉じ込めておけば発狂するしだからといって野放図にしているとあっという間に繁殖して多頭崩壊する。人間社会にペットを受け入れるためにはきちんと躾けてペットに譲歩させると同時に適切な運動や環境を用意して人間側がベットに譲歩するという両方を同時に行う必要がある。同様にお気持ちもきちんと飼いならさなくてはいけないのだけど、その方法を知っている人が少なすぎる。

 

ていうかなんでこんな「よくわかる哲学にゅうもん」みたいなところから始めなきゃいけないんだ…

自己決定と自己コントロールについてとか、もうどんだけ周回遅れなの。2000年前から議論されてるところじゃん北極星は動かないとかそういうレベルだろ。

 

いやもう理解しろとかそんな傲慢なこと言わないから、治療法の意思決定には「お気持ちが揺らいだときの対処法」をしっかり盛り込んどこう。それで「お気持ちが揺らいでも理性を優先してください」というところに○をつけた人は死の直前にどんだけ泣き叫んでも情け容赦なく殺すということで一つよろしくお願いします。

 

 

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