雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

包丁を持って暴れる心理に至るまでの過程を説明してみる試み

一連のひきこもりや家庭内暴力まわりの殺人事件で、どうにか加害者や被害者にレッテルを貼って自分には関係ないと裁断処理したくてたまらない人がいるようです。でも人はわりと簡単に狂うし、狂ってしまったら当事者にはもう止められないし、真実は人の数だけあるし、なんていうか人間なんてアメーバよりも生命力が低くてすぐ壊れるのだというのはもっと知られるとよいと思う。

 

ということで、私が狂気に至るまでの道筋を説明してみる試みです。でもうまく説明できる自信は無い。また、私自身は加害はしたことがありますが、殺害に至る暴行はまだありません。私の起こした加害に関しては許されるものではなく被害者への償いと私の罪は一生背負ってゆくものと思っています。

 

長い文章ですがつまり何が言いたいかというとキチガイは生まれながらにしてキチガイなわけではなくて環境が整えば誰でも例外なくキチガイになるということです。

キチガイの行動を一般人が観察した文章や、キチガイキチガイの文脈で書いたキチガイじみた文章はわりとありふれているのですが、キチガイが一般人に分かるような文脈で狂気を説明した文章は少なくて、だからこそキチガイは一般人とは全然別の生物のように思われてしまうのではないかと考えてちょっと書いてみようと思いました。

でもよく考えたら私がすでにレアケースの塊なので私の事例を書いても一般化はできないのか…でも他人の事例を暴露するのもまずそうだし……まぁいいや深く考えずにつらつら書いていきます。

 

 

 第一段階 解離性同一性障害

私の狂気には段階があります。第一段階では私は油で揚げられている最中のコロッケみたいな気持ちになります。コロッケなので目も耳も無くて、周りの油がじわじわと温度を上げていって、あーこのまま温度があがったらかりっとフライになってしまうなぁという気持ち。でも所詮コロッケなので熱いとかフライになりたくないとかそういう思考は無い。ただただ油の温度が上がっていくのを感じているだけ。みたいな。

そしてこの気持ちが強まってくると解離性同一性障害が発生します。

コロッケな私がぼやーっとフライにされている間に私以外の人格が表に出てきて面倒な仕事を勝手に片付けてくれて、コロッケ状態が解除されると目の前に仕事の成果だけが残っている、ということがわりとよくあります。コロッケは所詮コロッケなので時間の概念がありません。下手すると何年もコロッケやってて気づいたらがらっと環境が変わっているなんてこともありました。

これだけなら離人や健忘なのですがなぜ私はこれを同一性障害と表現するのかはまたちょっと別の話なので別記事にしたいと思います。

とりあえずこの現象に関しては、発表会で緊張して頭が真っ白になるとかそういうのと同じ感じです。

 

 

第二段階 転換性障害

解離性同一性障害の状態では、コロッケになっているのは私の心理だけで、私自身はきっちり仕事をしていました。でもさらにストレスが加わるとコロッケ状態が表に出てきてしまいます。つまり、身体機能を低下させて昏睡状態のような感じになります。平らく言うとこれは過労で疲れて爆睡してる状態なんですが、下手すると呼吸や排泄すら危ういくらい意識が低下するので、ここまでくると入院を検討するレベルです。以前一度めちゃくちゃなストレスがかかったときに人前でこの状態になってしまって医療保護入院したことがあるのはこのブログにも書いたことがあります。

ただこれは単に死ぬまで寝てるだけなので私自身としてはそんなに困ることでもありません。しょせん私はコロッケなので、揚げられようが食べられようが別に関係ない。そこで関係ないと言えてしまうこと自体が異常であり障害であるとも言えますが、べつに私自身が困ってないならそれでいい。

このあたりまでは目立った奇行などもなくわりと普通なレベルだと思っています。

 

第三段階 幻聴幻覚

さて一気にキチガイじみてきました。

コロッケは大人しく寝ているだけに見えますが、精神の防御力が極端に落ちている状態なのでけっこう危うい状態です。この状態でさらに追い詰められると幻聴幻覚が発生します。具体的には、殺せとか死ねとかいう人の声が耳元でうわーっと聞こえるとか、他人の顔が鬼に見えて襲われると思い込むとか、なんかそういうテンプレなあれです。幻聴幻覚は人によって様々な種類があるらしいですが、私の場合はあまりにテンプレすぎて笑ってしまうほどでした。

幻聴幻覚はキチガイの代名詞のようになっていますし、普通の人はまず起こりえないとされているため裁断処理されやすい部分ですが、これはよくできたホラー映画を見ている状態だと考えてみると分かりやすいのではないかと思います。

 

夜中にホラー映画を見てしまうとトイレに行くのが怖くなる、というのは大の大人でもわりとよくあることです。理性は映画の中のゾンビは作りものだということは理解しているけど本能の部分がゾンビを信じてしまっている状態です。本能は画面越しの映画ですら現実と混同します。もっと強烈な体験、たとえば腐乱死体を実際に見てしまったとか、殺人鬼に狙われたとかいう人が夜中にひとりでトイレに行くのが怖い、というのを気のせいだと笑う人はいません。

私は窓辺に立つと連れ去られる妄想を持っていますが、これは昔親族にストーカーされていたときに実際に窓から攫われた経験があるからです。このように明確な因果を説明できる場合、妄想は妄想ではなくPTSDと理解されます。ですが私が窓辺と恐怖の因果を説明できるようになったのはごく最近です。それまでなぜ窓辺に立てないのか私自身にも理解できませんでした。この状態で無理に説明を求められたら、誰かに狙われている気がする、窓から攫われて恐ろしい目にあわされる、としか言いようがありません。もし私に自分の状態を十分に分析説明できるだけの言語能力が無ければ今でも私の恐怖は妄想とされていたことでしょう。

 

よく精神病患者が幻聴や幻覚がほんとうに聞こえてくると主張しますが、あれは逆です。完全に現実だと信じ込んでいれば主張する必要を感じない。本当なのだと主張しなければいけないということは自分自身もどこかでこれが現実ではないと分かっているからです。

つまり精神疾患とは幻聴幻覚が現れることではなくて、幻聴幻覚を現実に紐付けて説明できるだけの言語能力や知能の欠如です。私個人としては、精神疾患とは知的障害や適応障害の一種だと思っています。

十分な知的能力を持っている人でも、過酷な状況に置かれれば処理できずにフリーズします。つまり狂気は誰にでも起こりえます。

 

さらにややこしいことを言うと、幻聴幻覚の理由というのは関係者が納得できさえすれば真実である必要はありません。

私が親族に拉致監禁されたというのは私の主張で、当事者の親族に話を聞けばまた別のナラティブがあるでしょう。おそらく「頭のおかしい娘を人様のご迷惑になるまえに家に連れ戻した」とかそんな感じの。

ここで親族ではなく私の証言が信頼されるのは、ひとえに私の社会的地位や人脈が相対的に高いからにすぎません。私は私のホームグラウンドではそれなりの地位と信頼を得ていますが、もし生家に帰れば気のふれた娘として座敷牢に閉じ込められます。今私が自由に外を出歩けているのは私の生家より私の人脈の方が強いからにすぎない。私は現時点でゲームの勝利者であるにすぎなくて、このパワーバランスは状況によって簡単に覆ります。たとえば親族の相互扶助が憲法に記載されたら即詰みです。

なので不謹慎ですが、ひきこもり殺人がこのタイミングで起こったことにすこしほっとしています。事件は痛ましいですが、家族で弱者を扶養するというのはゲームの敗者の逃げ場を塞ぐことで、それをされてしまうと勝者も敗者も逃げられない、という危機感をまだ後戻りできる段階で多くの人が持ったことで救われる人は多いと思う。

 

第三段階(最終) 自傷他害

おそらく多くの人が思い描くキチガイのイメージに一番近いのがこれだと思います。つまり妄想に支配されてわけのわからないことを叫びながら包丁を振り回す姿です。

 

攻撃的な妄想や幻覚があっても必ずしも実行に至るわけではありません。衝動と実行の間には大きな溝があり、大多数の人は暴力を振るったことはないと思います。

でも、条件が整ってしまえばその溝は簡単に埋まります。

 

これはたしかこのブログには書いていなかったと思うのですが、私は自分を責める幻聴が聞こえて他人の顔が鬼に見えた時、速やかに警察に行ってそこから入院しました。アレです。中二病でよくある、俺の理性が保つうちに逃げてくれってやつ。たぶんあのままだったら確実に殺人を犯していたし可能であればそうなるまえに自殺していたと思う。

でも、自己効力感がないと自殺という発想に至れません。このあたりも少し想像しにくいところかもしれませんが。殺すなら一人で死ねといいますけど、まず自己を認識して、自分の体は自分でコントロールできるのだという感覚を保障されないと自死という発想は出てこない。痛みも寒さも空腹も屈辱も恐怖も全てが他人に与えられる生活をしていると自分という感覚がなくなります。

考えてみると、自分の存在が分からないというのが他害に至る要因なのかもしれない。だから私は一時期やたらに自傷していたのかもしれない。

 

自分の感情は自分のもの疑い無く思えている人にはなにを言っているか分からないかもしれません。このあたりはもう少しよく考えてみます。

 

 

 

 

ここまでくるとザ・キチガイという感じですが、これも実は結構ありふれた状態です。家庭内暴力や痴漢やカツアゲやぶつかりおじさんなど、世の中には暴力がありふれています。それらの加害者はたいてい己の行為を正当化しています。俺はこれだけ虐げられているのだから他害してもいいはずだ、相手も喜んでいるはずだ、この程度たいしたことじゃないみんなやっている、など。これらの歪んだ認知も妄想の一種ですし、病的な妄想とされるものと本能だから仕方ないなどと言われ許容されやすい妄想との差は単に社会に許容されているかどうかの違いしかありません。社会に許容された妄想は社会に免罪符を与えられているため、簡単に暴走します。男の性欲は抑えられないという妄想を共有している社会では男は女を強姦するし、子は親の所有物とされれば親は子を殺す。

 

これは人類のバグなのではと思うのですが、暴力を社会が許可するのは正当防衛のときではなく、社会的地位が高い場合です。窮鼠猫を噛むと言いますが、現実に猫を噛めるのは窮鼠ではありません。俺は偉いから、強から、正しいから、こいつを殴っていいのだと信じ込んだときに人は最も残虐になれます。私もこのような『許可を社会から与えられた』状況になったことが何度かありますが、本当に自分自身の組成が組み変わります。感覚も体力も知力も全てが暴力に特化したものになってしまう。この状態になると自分の倍くらいある相手でも簡単に封殺できるし、杖をついた老人が若者を撲殺することもできる。

ここで唐突にミサンドリーを垂れ流しておきますと、おそらく恒常的に暴力を社会から許可されている男性たちはいつもこの状態なのでしょう。そりゃ、マトモな理性を保っている女性は男性に勝てるわけがない。女性が男性に勝てないのは弱いからではなく人間であることを貫いたからだし、男性が女性に勝てたのならそれは強いからではなく人間であることを捨てたからです。人間やめたのなら速やかに人権も返納してください。

 

 

まとめ

さて、最後ちょっと話がそれましたが、つまり何が言いたいかというと

状況分析能力最強

ということです。

 

たぶん多くの人は狂気に慣れていなくて、いざ追い詰められると一足飛びで第三段階まで行って大なり小なり暴力を振るってしまいます。そしてそうやって一線を越えた人を裁断処理して自分には関係ないと思い込もうとする。

でも暴力に至る前には無限の段階があって、それらを一つ一つ紐解いていくことで問題を解体できるし、常日頃解体すべきである、みたいなことを書きたかった。

とはいえひきこもって家庭内暴力を振るうようなこじれまくった人が自分の思考の解体なんてするわけないし、それができないからこそ暴力に至るわけで、自分の手に余る葛藤を抱えてしまった人、葛藤の処理能力が著しく低い人をどうするのかを考えなくてはいけないのでしょう。そういうやつらは攻撃的でやっかいで支援者を危険に晒すので、一人で死にさらせと思いたくもなるし、それも一つの正解ではあるのだろうけどおそらくそれでは社会が納得しない。じゃあどうするのというのは私にもわからないけども。