雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

幼少期からの躾で箸の持ち方など所作が上品になるという「伝説」について

 脳外科医を目指していたけど指の構造上どうしてもできない動きがあってあきらめた人を何人か知っている。そもそも脳外は体力集中力記憶力気合など全てにおいて名皆ずれていないとできないのだけど、単純に指の腱が一本少ないとかそういうのでも欠格事由になってしまう。

それとか、文字が読めないとか漢字が書けないとか計算だけできないといった、何をどがんばっても達成できない学習障害の存在はだいぶ知られてきた。

 

その中で、箸の持ち方やら食事の所作やら鉛筆の持ち方やらは家庭のしつけでなんとかなると信じている人がまだ結構いるらしい。

箸や鉛筆の持ち方は脳とか指とかの構造上できることとできないことがあるし、もし正しい持ち方をしたいのであれば単純な反復練習なんかするよりMRIでもとって短い腱を伸ばす手術でもしたほうがいい。食事の時にクチャクチャ音を立てるとかであれば嚥下や鼻腔の手術するほうがいいし、美しい文字を書けないのは高次脳障害を疑ったほうがいい。和室で美しく座れないなら股関節の、お辞儀できないなら脊柱のレントゲンをとったほうがいい。

茶道や礼法のような美しい所作は神経系と骨格系の両方が整ったバレリーナ並の身体機能を持った人でないと達成できない。上流仕草は最低限のマナーではなくて選び抜かれた死屍累々詰みあがったうえに成り立つ肉体美だ。

 

と、ここまで書いてみて、子供のころからマナーを躾けるべきと主張している人たちは単純な動作としての箸の持ち方ではなくて何かもっと違う、お上品な空気感みたいなものを求めているのではないかと思った。だったら身体的に無理なことを要求しないでもっとマインド的なところを帝王学的な何かでどうにかしたほうがいいのではないか。あとその帝王的な雰囲気的な何者かは幼児期から刷り込まねばならないものなのか。語学における臨界期みたいなものが雰囲気にも存在するのか。育ちが良くても下品な人はとことん下品だったりするけどあれは一体どう位置付けるのか。竹田氏とか麻生氏とか。

ゴキブリが嫌いと同じレベルで箸の持ち方が変な人が嫌いといお気持ち表明は別に好きにすればいいと思うのだけど、具体的に彼らが何をどうしてほしいのかは気になる。