雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

人間はおっぱいに幻想を持つ生物であるという認識から出発する

今、自分の位置を把握して自立して動くやつ、めんどくさいからルンバでいいや、とにかく多少賢いルンバ的な何かを作っている。ルンバじゃないけど掃除もしないけど別にそれはいい。

自分の今いる位置を客観的に判断するためには部屋の天井にカメラをつけて無線で画像を飛ばせば簡単なんだけど、そういう外部情報無しで自分に設置されたカメラからの画像のみで自分を客観視するには大量のデータを喰わせて機械学習させる的な、なんかめちゃくちゃめんどくさい処理が必要になる。だからルンバはあんなにアホみたいな動きしかしないし賢いルンバはスペックと手間が馬鹿みたいにかかる。

 

で、たぶん人間の眼球が自分の体にくっついている以上やっぱり人間も自分を客観視できないし、自分の眼球から見えるものから自分自身を把握するためにはかなりの訓練と知能と気持ちの余裕を必要としていて、そのどれか一つでも欠けるととんでもなくワガママで暴力的ではた迷惑なサイコパスが誕生してしまう。たぶん人間は、というか生物は、デフォルトでサイコパスなんだろう。

そんなナチュラルキラー生物にサピエンスを目覚めさせるには教育プログラムが必要で、おそらく男性ジェンダーの身体的コミュニケーションにおていその教育プログラムがうまく機能していないからセックスに関してサイコパスな男性が発生してしまっているという現状を認識する必要がある気がする。

 

おっぱいをさわる、というのに多くの男性が異様な興味を示すしむしろおっぱいに興味を持つことは男性の根源的生理的欲求なのだみたいな言説がまかり通っていたり、エロ表現を「誰かの体を借りた二次創作」ではなくて「俺たちのオリジナルの表現物」みたいな発想をしたり、そういうのは、身体的コミュニケーションに関する教育が一方的で暴力的なエロ『しか』ないことが結構根本的な問題なのでは、と思う。

ここでいう暴力的とは殴るとか蹴るとかいう意味ではなく「相手がどう思うかを無視して自分がどうしたいかだけを考える」という意味で使っています。「おっぱいをさわりたい」はおっぱいの持ち主がその接触をどう感じるかという視点がすっぽり抜けているので暴力的です。そして暴力的な発想は相手にとっても自分にとってもむなしい。おっぱいをさわりたいと思って触るおっぱいはただの脂肪の塊で、自分の腹肉と変わりない。キスはアミラーゼとニンニクの味だし、まんこもちんこもナンプラーの味しかしない。なのに創作物では「おっぱいをさわって素晴らしい境地に達した男」しか出てこない。

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こういうのほんと気持ち悪いし邪悪だし、それを笑えるギャグだと思って平然と本屋に並べる神経は昭和で終わりにしてほしい。もうこういうのに愛想笑いするのはうんざりだ。

 

 

おそらくここに男性の抱える困難というか、身体性への憎しみみたいなものがあるのでは。

 

たぶん、ヤりたいとかいう欲望自体がフィクションで幻想で、だから男性は苦しいのではないでしょうかしらんけど。賢者タイムとかそういうの。

そしてそこを打開するために必要なのは「おっぱいをさわりたい」という幻想を脱却して「おっぱいをさわられたいだろうか」にシフトチェンジすることでは。そして「今この人はおっぱいをさわられたいかもしれない」と気づくためにはまず自分が「おっぱいをさわられたい」気分を知らなくてはいけなくて、つまり男は一度きちんと抱かれる必要があるのだと思う。汁気の多いBLのような雑なセックスではなく、肌と肌が触れる心地よさ、ジャンルとしてはマッサージとかエステとかそういうタイプのやつ、を知ることで男の子の傷つき体験が癒されていくのでは。

 

 

たとえばトカゲやカエルみたいな生物は触ることも触られることも嫌うし触りすぎるとストレスで死ぬ。高度な知能を持つ生物は接触を好むけれどこれはおそらく逆で、接触を好む生物ほど高度な知能を獲得できるのでは。

密着して肌を触れ合わせるというのは本能的な警戒心を理性で抑え込むという非常に高度でサピエンスな体験で、眼球が自分の頭にくっついている不便なデザインの生物が他者との距離感を掴むための思考訓練で、とりあえず男性はマッサージとかサウナとか行くといいんじゃないかとちょっと思った。