雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

おのれの傷と向き合うような感じの話

この間仕事の打ち合わせで適当なファミレスに入ったら個室風になっていて、打ち合わせ自体は普通に打ち合わせだったのだけどああ私は男性と個室にいるのが苦痛なのだとしみじみ噛み締めた。

 

問題というのは大きすぎると問題にならないのだと思う。核戦争が勃発したらどうしようとか明日地球が終わったらどうしようとかは冥王星くらいの大きさなのだと思う。大きすぎてどうにかしようという気にもなれないし存在を把握することすら難しい。

問題が地球くらいの大きさになってやっとそこに問題があるということだけは分かる。でも地球が丸いとか太陽の周りをまわっているとかいう構造を正しく把握するには相当な試行錯誤と知識が必要。

おそらく多くの人にとって問題とはベルリンの壁くらいのサイズ感なのだと思う。存在から目を逸らすには小さすぎ、解決するには大きすぎる。自分の人生に多大な影響を及ぼす、自分ではどうにもできないもの。

 

 

おそらく、多くの人にとって問題は「好むと好まざるとに関わらず強制的に影響を及ぼすもの」なのではないかと思う。だから毒親だとかDV彼氏だとかブラック企業だとかの影響で今でも対人恐怖症です、とかが普通にありえる。客観的に見て毒親と今の現状は無関係でも本人の中では西と東を分か壁並みにどうしようもないものなのだろう。そこに存在するのにどうにかしたいのにどうにもできない。

 

 

 

でもたぶん私はベルリンの壁くらいの大きさの問題を認識できない。私にどうにかできるのは私の手の平に収まるくらいの大きさのものだけで、私にどうにかできないものは私にとって存在しない。

「私にとって存在しない」という事象を「私」が「認識する」というのもなんか変だけど。認識しているということは存在しているということで存在しないを認識するってどういうことだ。いやそれは話がそれるからまた今度考えよう。とにかく、私にとって私にどうにかできない問題は存在しない。なので私の見た世界の中で問題というのは私の手の平に収まるか、せいぜいちょっとはみ出るくらいのサイズになる。大きさで言えば2リットルペットボトル。持ち運ぶにはちょっと邪魔くさいくらい。

 

それでだんだん何を書きたかったか分からなくなってきたのだけど、今ちょうど私は「密室に男性といる」という問題に対して認識するかどうかの境界線に立っているというわりと珍しい状況なので不思議な気持ちになっている。

なんか知らないけどあの打ち合わせの時に薄ら嫌悪感があったのは確かなんだけど、今はなぜそんな気分になったかさっぱり分からない。ファミレスだし、普通に仕事の話しただけだし。さっきまで確かに手の上にあった2lペットボトルがどこかに消えてしまった。さっきまであったのに。その重さまで覚えているのに、ない。あったのに、あるはずなのに、ない。

 

そこに確かにあるはずなのに、観察者がいないから存在しない、妖怪めいた混沌。

観察者が存在しないから成立する混沌を観察したいという欲求は私を生かす根源なのだろう。

でもそれをやると正しく気狂いになってしまうのでな…

別に精神病院で一生を終えてもいいんだけどそれはやろうと思えばいつでもできるので今は別にいいかな。でもほんと久しぶりに覗いたけど、いごこちいいわこの全ての意味が剥離した世界。私の中で私だけが異質で、私が認識することで成立する私の世界は私が消えることで完成する。

 

そういえばこの観察者に対する嫌悪というか憎悪というか、なんなんだろこれ。何由来なのかな。

あとなんか哲学的なハイテンションになっちゃったけど問題はミソジニー的なものだった。多分ジェンダー規範で分断されていて見えているものが違いすぎる、かつその違いを自覚せずにすんでいる強者側である男性が気楽に暴力を振りかざすのに対するおなじみの嫌悪というのもあるけど、それだけでなくてたぶん、他人の行動を勝手に決定するみたいなのの嫌悪があるのだと思った。

障害者の治療方針を家族が勝手に決めちゃうとか、死にたいと言っている高齢者を勝手に延命治療しちゃうとか、そういうやつ。自分だったら延命治療されたくないけど老人の延命治療は中止できないみたいな心理状態。

それに関して多分私の場合、錯綜しすぎた血縁関係の特殊性があると思う。現代的な家族の問題は母と子だけの閉じた中でずっと反射し続けることで、それとはまた別の、なんていうか子を生贄みたいな立ち位置にする、先進的な「無垢な子供像」と明治大正の血塗られたごたごたの悪魔合体みたいなやつ。搾取子ならぬ生贄子。

みたいなのももうちょっと整理できたら書いてみたい。