雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

具合が悪いときに自分がどうなっているか考えてみる試み

昨日は中途半端に終わったので続き。
そもそも多重人格(笑)はべつにどうでもいいんだった。感覚のズレみたいなところが問題だった。

たぶん私は自分のことも他人のこともわりとどうでもいい。誰かが「死にたい」とか言って来たとしても「へぇ」としか思わない。実際死んでも「へぇ」としか思えない。それが親友でも恋人でも、彼らは私ではないし私の所有物でもないから彼らが何をどうしようと私としては「へぇ」でしかない。


なんかこのへんのズレがやばい感じに見えてしまうから馬鹿に見えるし危なっかしく見えるし入院とか進められるし自殺企図みたいな誤解をされて騒がれたりするんだきっと。

私は他人に興味が無いのと同じように他人は私に興味がないような気がしてしまう。だから誰にも相談しないでいろいろなことを決定してしまう。最低限必要なことは伝達してるし相談もするからいいじゃん。でもたぶんそういうあれじゃないんだきっと。


たとえば、私がよっしゃ死のう、と思ったとして、私が死ぬことで迷惑がかかる範囲の人に事前に相談する。死にたいくらいたいへんなときにもちゃんとほうれんそうする私偉い気遣いすごい。それで私が死ぬことで多大な迷惑がかかるからやめてくれ、とか言われたとして、その多大な迷惑vs私の死にたい気持ちで話し合ってどうすれば全員が納得できるか、みたいな話し合いをする。
みたいなのは何かが違うのだろうたぶん。よくわからないけど。

たとえば私の身近な誰かが死ぬと言い出したとして、私としては遺産相続とか保険金とか銀行口座とか仕事とか葬式とか火葬とかの心配をする。そのあたりをクリアしてくれたらあとはいつ死んでもらっても構わない。私にとって誰かが死ぬというのは相手の人と私とのこれからの未来がなくなるだけのことであって、相手の人と私がこれまで積み重ねてきた時間がなくなるわけではないし、私の未来の可能性の一つが減ってしまうのは残念ではあるけれど私の残念な気分程度で相手の人の選択を狭める気は無い。相手の人が生きていても死んでいても笑っていても泣いていても、私の気持ちは変わらないし、別にどうでもいいから好きにすればいい。

みたいなのはやっぱりなにか違うらしい。
なにが違うのか……

いや私だって「死ぬ」と「死にたい」が違うことは知ってるよさすがに。「死にたい」に対しては「なんで?」みたいな、思考を整理する言葉を求められている。人間覚悟を決めて行動することなんかほとんどなくて、たいていの場合思考の整理をしてくれる他者を求めている。

でもこれもなんか違うらしい。
わからねえよ……