雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

そろそろ定型発達を『健常』だと思うのをやめたほうがいい

PTAとか「子供のためになることをする」とか言うから、ベルマークはほんとに子供のためになるんかとか親がつきっきりで開催してやる運動会は果たして子供の情操教育によい影響を与えているのかとかそもそも親だけが子育ての責務を負うこと自体がおかしいじゃないかとか、そういう冷静なツッコミをしたくなる。

町おこしで若者を呼び込む事業とかも「若者の新しいアイデアを活かす」とか言っちゃうからじゃあ新しいアイデア作ろうぜ、つまんない田舎をどんどん変えていこうぜってなるじゃん普通。だってそうしてほしいって言ってるんだから。

 

 

 

でも町おこしなんちゃら事業で田舎の老害が求めていることというのは「村祭りを例年通り開催すること」であったり「年末の餅つきができる体力のある若者を確保すること」だったりするわけで、新しい事業とかオシャレなカフェとかは求めてないわけで、だったらそれは「老害の言うことに従順で、もはや利益を生み出さない形骸化した儀式をタダでこなしてくれる若者を募集してます」って正直に言いなよ。「PTAは暇な主婦が所属欲求を満たすための集まりです」って言えよ。っていう。

 

自分のやってほしいことを明言しないくせにこっちが察してあげないと機嫌を損ねるとか、なんなのもう。

こういう人達って建前部分をみたしてあげればあげるほど出る杭をぶちこわしにかかんのね。PTAが子供のためっていうから極限まで能率化したシステムをつくってあげたり、田舎が貧乏だっていうからすごいイベント開催してお金落とさせてあげたり、数値目標をきっちりクリアすればするほど「結果だけじゃ人はついてこない」とか言い出すんだよ。じゃあ最初から結果を求めているわけじゃないと言えよと。

 

こちらとしては入力された条件に対して最適な解を示したわけで、「ほんとは入力した条件とは違う条件を満たして欲しかった」とか後だしジャンケンされても「はよ言え」としか返せない。

 

 

なんて、思ってしまう私は多分に自閉傾向があるんだろう。

いやでもこれに関してはほんとわかんない。ていうか障害があるのはどっちだよていう。

入力された値に対して正確な答えを出す側と、PCに間違った問いを入力して正しい答えが出て来ないからって激怒してる側、どっちの頭がおかしいかな。自分の基準が唯一絶対だと思い込んでいる自称定型発達たちはそろそろ自分を健常者だと信じ込むことに疑問を持っていただきたい。

世の中には有能と無能の二種類の人間がいる、ということ。

なんかね、将来を見据えた合理的な解決策を考えられる人ってね、空を飛んで移動する鳥みたいな視点なんだと思うんだ。

そんで、将来行き詰ることなんて分かりきってるのにひたすら現状維持して変化を認めない人って、地面に閉じこもるミミズみたいな人生を生きてるんだと思う。

どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、生き物としてのスタンスそのものが違うの。価値を置くものが違いすぎて、言葉は通じても話は通じない。

umebosi.jp

 

てことで、こういった↑発信を告発とか悪口みたいに捉えちゃう人ってほんとにいるんだなぁ、って。

 

んーと、なんか、鳥タイプの人とミミズタイプの人って、仕事とか人生とか目的とかそういう根本的なところで完全に食い違ってるんだろなぁって。

 

地方創生的なところで例を挙げるなら、目的としては町おこししなわけでしょ。地元のよさを外部にも知ってほしいわけでしょ。都会の人に名産品を買ってほしいし、若者に移住してきてほしい、みたいなのがざっくりした目標なわけで。

だったらさくっと名産品をプロデュースして広告打って販路つくればそれで解決じゃん。よーしやろうぜー。PCDAがんがんまわすぜー。

て、考えるのが鳥タイプの人。

 

でもミミズタイプの人ってのは、たぶん全然違うロジックで動いてる。

たぶんなんだけど、彼らは自分たちのやってきたことを否定されることを極端に恐れている。新しいことを始める、が、古いことを否定する、つまりこれまでの自分たちの努力を否定される、につながっちゃってる。

だから彼らにとっての地方創生というのはこれまでのやりかたを肯定することであり、都会から入ってくる若者に求めることはこれまでのやりかたに従うことでしかない。

きっと彼らの頭の中では「これまでのやりかたで絶対にうまくいく。これまでのやりかたに従わない若者が現状を悪化させている」になってるんじゃないでしょうかね。たぶん。

 

まぁ、これまでのやりかたをゴリ推ししてきた結果が現状なわけですけども。

これまでのやりかたじゃ食ってけないから過疎が進んだわけですけども。

 

だけどそんな正論は彼らのロジックの中では「これまでのやりかたに従わない反乱分子」にしかならないわけで。

 

そんなミミズのコロニーで生きていきたいなら、彼らのロジックを理解したうえで逆手にとんなきゃいけないんだと思う。

 

 

あと個人的には元記事の方には、地域おこし協力隊をやめるに至った原因とか行政とのやりとりとかもっと詳しく掲載してほしいなと思いました。やりとりした書類を全公開くらいするとフェアなんじゃないでしょうか。

と私としては思いますが、議論の俎上に乗ることと存在の全否定がイコールで結びついてしまっているミミズタイプの人にとっては閉じた地域でのやりとりを公開すること自体がミミズの存在意義を否定することと捉えられてしまうのでしょう。ほんとめんどくさい。

 

 

 

 

ていうか、私も最近とある分野の学問で長年信じられてきたことが間違いだと証明しちゃったんだけど、まぁすっげぇぇぇ叩かれるのね。E=MC、みたいな誤植レベルの明らかな大間違いが教科書に堂々と乗っかってるっていうのに、間違えを認められない、認めたくないっていい年こいたオッサンが大暴れしてて、まぁ私としては老害が全員死ねば解決なわけで別にいいんだけど、なんかほんと気の毒な人達だなぁと思う。

 

 

 

子供の泣き声を無視できない心理を考察してみた

常に他人の顔色を伺ってご機嫌をとらなければ不安で仕方ない、というパーソナリティは病的だ、というのは多くの人の理解を得られると思う。だがこれを母親と子供にあてはめたとき、常に子の顔色を伺い、子が不機嫌だと不安になりなんとかご機嫌をとろうとする母子関係を病理だと捉えることのできる人は、現代日本ではとても少ない。

 

いや、わかるよ、生まれたばかりの子供はまだ自分の延長で、だから子供が泣いていると自分も不安になるっていう不条理だけど抗えない感覚。

だけどそこを乗り越えて母子分離するのが人格形成の基礎じゃん。ママと自分は別の人間であるということを理解することが人格形成において超大事じゃん。ここはぐっとこらえて乗り越えなきゃいけないことじゃん。

 

泣いている子供はかわいそうで不安で仕方なくて、だからこそ放置しなくてはいけないと思う。とくにハイコンテクストの弊害がこれほど濃厚に出ている現代日本では。

 

前のエントリで『子供の泣き声に反応するのは母親の本能』て意見があったけどそれ日本だけだからね。ヨーロッパでもアメリカでも泣いてる子を普通に放置してるからね。

 

hedgehogx.hatenablog.com

 

むしろ母親は子育てするのが本能、てのも別に普遍的じゃないからね。東アジアだと子育ては親戚のオッサンがやるものだったりするから。そういう地域に行くとガチムチでヒゲで強面のオッサンが子供に大人気で、なよっとした女性が子供をかわいがろうとすると「女のクセに子育てに手を出すなんてw」みたいな反応されるよ。

日本だって一昔前の農家だと子供なんて木にくくりつけておくのが普通だったり、上流家庭では乳母がいるのが当たりまえだったりしたわけで、母親たるもの泣いている子供は何が何でもあやさなければいけないという強迫観念はわりと近年のものだ。

 

今我々が抗えない自然の摂理のように受け入れさせられている観念は本能でもなんでもなくてほんの数十年の間に形成された社会的要請に過ぎない。たとえそれがどんなに強固に作用しているように感じられても、いや、強固に作用しているからこそ、それは単なる刷り込みだ。

だって、もし子供を泣き止ませるのは母親の本能だったらなんで夜泣きにつきあうのはこんなにキツいの?本能を満足させる行為には快感を伴う。不快だということはそれは本能ではないということだ。

本能ではないのに、本能のように思い込まされている、ほんとうはキツいのに、キツいと感じることを許されていない。もしかしたら私は母親として欠陥品だからキツく感じるだけで、他の母親にとって夜泣きに付き合うのはキツくないのかもしれないという疑心暗鬼で孤立する。そのダブルバインドで得をするのは子育てを母親の無償労働で賄おうとする社会と男性と未婚者だけだ。

 

だから、声を大にして言おう。

夜泣きは放置していい。

もしあなたが夜泣きを放置できないほど追い詰められているのなら、誰かに助けを求めてほしい。

 

それを言うことは、夜泣きに付き合った努力を無にすることではないし、夜泣きに付き合って得た精神的成長や充足を否定することでもない。もちろん夜泣きにつきあうのは悪だと言うことでもない。夜泣きにつきあえるだけの余裕があるなら、そして夜泣きに付き合うのが苦痛でないなら、別に好きにすればいい。

だけど夜泣きを無視できないのが母親としてあるいは人間として当然の本能、というのは、夜泣きに付き合えない事情のある母親を排除する言説であり、それを不用意に使うことは他者も自分も追い詰めるのだという構造はそろそろみんな自覚すべきだと思う。

 

 

 

 

そもそも夜泣きを泣き止ませなければいけないというのが狂ってる件

たとえば、泣きたいときに問答無用で泣き止ませようとする恋人ってどうでしょう。ちょっとウザくないですか。悲しかったら思いっきり泣いてすっきりしてから今後について考えるほうがよっぽど健全じゃないですか。

 

子供にだって泣く権利はあると思うのですよ。

 

現代日本の、子供を泣かせてはいけないというキチガイじみた圧力は一体どこからきてるんでしょう。

わけわかんない自分の感情をもてあまして大声あげて暴れまわるというのはわりと爽快感があるじゃないですか。むしろ常に泣かないよい子でいることを強要されるほうがよっぽど虐待じゃん。

 

なんだけど、今夜もまた夜泣きする子供を抱えて幽鬼のように徘徊する母親が出没する。

 

子供の夜泣きなんか放置しときゃいーんだよ。どーせ何したって泣き止まないんだし。

 

www.ippaikaasan.com

もうほんと、頼むから寝て。夜中に子供放置してふらっとコンビニ行って。子供なんかどうでもいいからまず自分を立て直して。

 

子供に付き合って寝不足になるなら、子供は子供部屋に放置してぐっすり寝て、その努力を自分が幸せになれる方向に使ってほしい。親が楽しそうじゃなきゃ子供だって楽しくないから。

 

泣き止ませる努力をする親も、泣き止まなくてはいけない子供も、子供は泣いてはいけないと要求する他人も、みんな得してないと思う。

 

 

 

以下、思い出したので愚痴。

 

私の子供が夜泣き年齢だったころ、私は3つほど仕事を掛け持ちしてしかもそれぞれ落としたら各方面にヤバいことになるガチなやつでその上保育所は迎えが3分遅れただけでガン詰めされて、あげく新婚子無し上司に『子育ては仕事の言い訳にならない』とか言われて、いや私仕事の言い訳に子育てを使ったこと一度も無いしむしろ無遅刻無欠勤で残業してましたけどっていう。なんかもう怒る気力も無かった。

保育園の迎えがあるからあまり残業できないって言うと、だったら仕事家に持ち帰ればいーじゃんって言われるわけなんだけど、分けわかんないガキの面倒みてガキの生活リズムに合わせて寝て起きていつ仕事するんだと。夜中の3時まで仕事してても文句言われない独身と同じ扱いをするなと。

 

とまぁわりと詰んだ状況での子供の夜泣き事案だったもんで正直普通に放置して寝てた。あやすとか授乳とかなにそれおいしいの。死ぬような危険なことだけ排除しておけば好きなだけ泣かせときゃいいじゃん。

 

ていうか、母親に要求される努力というのは大概は無駄なものだと思う。

その子が大人になって不良になったとして「母さんが夜泣きしてるオレを放置したからオレはグレたんだ」とか言ったら大笑いでしょ。「母さんが紙オムツを使ったからオレはヤクザになったんだ」とか「離乳食のもぐもぐ期にせんべいを食べさせたから引きこもりになったんだ」とか、ないわー。

ちびっこなんか怪我させたり萎縮したりさせなきゃあとは別になんでもいいのに、不安を煽ってくる輩が多すぎる。

泣いている子供を放置するのをネグレクトだとか虐待だとか言うのは暴言であるということ。

 

ぶっちゃけ、私の世代というのは10代20代をドブに捨てた人が多いと思う。かく言う私もそう。いい高校に行っていい大学に行って大学院に行っていいいい就職をしろ、それ以外の余計なことに目を向けるな、一度でもドロップアウトしたら人生終わりだ、みたいなことを言われてレールの上を歩いてきて、社会に出てから盛大に梯子を外されて自分自身のサバイバルスキルの無さに愕然とした。

レールに乗って言われた通りのことをすれば安泰な人生が約束されている時代は去った現代で私が子供に教えていけることはなんなのだろうと考えました。

 

で、子供って「花屋になりたい」「消防士になりたい」とかふわふわしたことを言うじゃないですか。それに対して我々が提供できることというのはせいぜいキッザニアしかないというのは非常に嘆かわしいことだと思うのです。

花屋になりたい子に必要なのはフラワーアレンジメントじゃないし消防士になりたい子に必要なのは消火器体験じゃない。もっとこう、店舗の家賃とか税金とか減価償却とか集客とかそういうものじゃん。もうちょっと噛み砕けば、きちんと書類を書けるとか、礼儀正しく他人に資金援助を頼めるとか、そういうスキルじゃん。

 

そもそも、子供を泣かせるのは親の怠慢という日本や韓国辺りの不思議な風習がすでに狂ってる。

親の仕事は子供を泣かせないことじゃなくて、泣くことによって自分の感情を認識し合理的に他者に働きかける方法を模索する姿勢を支援することじゃないかと。いーっぱい泣いて、泣きつかれて、それでも釈然としない自分の心を抱えて、なぜ自分はこんなに泣いてるんだろうと内省し自分の欲求に気づけるだけの時間と空間を保障することじゃないかと。でも現代社会でそれをできるのは精神科の保護室くらいしか無いっていうね。そりゃ自殺者増えるわ。

日本のお母さんは子供が泣き始めたら大慌てで泣き止ませようと飴玉を口につっこんでくる。子供は自分の欲求に自分自身で対処する術を奪われ、欲求は他者が無条件で満たしてくれるものだと学習し、同時に他者の欲求は無条件で従うべきものだと学習する。

空気を読みすぎて死ぬ立派なエコノミックアニマルのできあがりだ。

 

 

個人的には、この欲求の先読みが統合失調症の妄想とか幻聴といわれるものに繋がるんだろなと思ってる。

ヨシケイの宅配サービスに闇を垣間見る

ヨシケイの食材宅配サービスというものがある。

なんでも、毎日のレシピを勝手に考えてそれに必要な食材を毎日届けてくれるから、消費者はただヨシケイの指示通りに調理するだけでいいらしい。スーパーに買い物に行ったり献立を考えたりする手間なしに毎日立派なご飯が食べられるというサービス。

毎食たったの30分のカンタン調理。

 

いや料理に30分もかけないし、食いもんなんて腐ってなきゃなんでもいーじゃん。

キヌアの照り焼きハンバーグやられんこんの塩きんぴらやらいう調理実習に出てくるみたいなご飯とか毎日作って食べなきゃいけないとかなにそれ怖い。

 

しかもそんなにおいしくない。

ヨシケイの名誉のために言っておくと、ヨシケイの宅配ごはんはそのへんのファミレスなんかよりはよっぽどおいしいとは思う。でも近所のばあちゃんが趣味で作ってる完全無農薬野菜とか、毎日産みたて烏骨鶏卵とか、明治時代の蔵で作ってる醤油とか、手作業で挽いてその場で打った霧下蕎麦とか、そういうのに慣れちゃうと量産品の薬品臭が気になる。

 

なんか、毎食きちんと立派な一汁三菜を食べなきゃいけないという呪縛にかかってる人が多すぎると思うんだ。そのくせ食材の品質とか安全性とかそういうのを見分ける味覚すら磨耗して立派なパッケージだけに振り回されて手間だけが無限に増えていく。

 

 

コンサートもそう。

最近クラシックですらなんのためらいもなくルーチンでマイクを使う。でもマイクを通してスピーカーで流れる音を聞くならCDで十分なわけで。わざわざコンサートに行くってことは生の音を聞きに来てるわけなんだけど。生の音と電子音の聞き分けすらできないのになんで音楽聞きにくるんだか意味わかんない。

 

 

自分の目と耳と鼻と舌と皮膚で確かめる、ということを放棄してキャッチコピーだけに頼って写真映りのいいご立派なものを求めて薬品漬けの不自然なものをありがたがるのほんとに気持ち悪い。

発達障害の天才児はなぜ大成しないのか考察

なんとなく一つ腑に落ちたのでメモ。

例えば円周率を暗記するにしても、ただお経のように暗唱するタイプと頭の中で割り算しながら答えを出していくタイプの二種類がある。

お経のようにひたすら答えを暗唱するタイプは能率がよく、小学生の時点で一万桁くらい暗唱できたりする。そういうタイプは小学校や中学校での勉強は暗記で押し切れるからそこそこ成績がいい場合もあるが大学から伸び悩み、社会的にも学術的にも大成しにくい。

頭の中で割り算しながら答えていくタイプは能率が悪い。世界レベルの天才ならいざしらず普通に会う程度のプチ天才であればせいぜい数百桁程度しか答えられない。だから彼らはとても地味で、成績もそんなに良くなかったりする。でも彼らは社会的にも学術的にもわりと成功しやすい。

 

で、この差ってなんなんだろうとずっと疑問だった。

円周率の答え方であれば分かりやすいけど、なんかもっと生き方というか考え方のフレームが根本的に違う感じ。同じ答えを言っているはずなのに、むしろ私より能率よく答えを言えているはずなのに、彼らのあの違和感や話の通じなさや根本的な所が分かっていない感はなんなんだ、って。

 

最近小さい子にカードゲームを教える機会があっておもしろかったんだけど、小さい子が一番初めに興味を持つゲームは意外なことに神経衰弱だった。もっとストーリー性のあるすごろくとかのほうが小さい子にとって分かりやすいのかと思っていたんだけど、極限まで条件を単純にした暗記にどの子も一番興味を持つ。そういや私も小さい頃神経衰弱にはまった気がする。

そして大概の子は成長するにつれ神経衰弱の単純さに飽きて他のゲームに手を出していくわけなんだけども、一部の子供は成長しても神経衰弱に嵌り続ける、というか、神経衰弱より複雑なゲームを理解できない。そういうのがいわゆる発達障害と言われていて円周率を何万桁も暗記するタイプなんだろなって思った。

記憶力だけは向上してもより複雑なルールや手順に興味を示さない、てことであればそりゃ人間関係も上手くいかないし学問だって極められないわ。

 

平凡な人、というのは興味を様々なところに向けられる子、ということで、一点に突き抜けた暗記力を示す人、というのはブリンカーを着けられた馬みたいにごく狭い範囲にしか興味を向けられない人、ということで、言い方悪いけど、彼らの頭の中は2歳児レベルで止まってる、と思えば納得いく。メモリだけ増設したXPみたいな。

 

一昔前だったら暗記力だけでも評価されたかもしれないけど、コンピュータの普及した現代では暗記なんか機械にやらせといたほうがよっぽど能率いいから使いどころが無い。そのあたりも発達障害が最近注目されはじめた一因なんだろう。

 

うん。二歳児にまともに怒っても仕方ない。すげー納得した。