雑記帳

チラ裏なつぶやき。鬱々しい。

注意事項をひっきりなしに怒鳴り続ける社会が息苦しい

 

茶室に「入室の際は頭を低くしてお入りください」なんて立て看板はないし、日本庭園に「ここより先は立ち入り禁止です」と怒鳴り散らす警備員もいない。どのように動きどのように振舞って欲しいかはデザインが決めることであって注意書きの看板や監視員の怒鳴り声で決めるものではない。

徒然草にあるように、柿の木があるから柿泥棒が発生し、それを阻止するための見苦しい柵が必要になる。だったら欲望を換気し人を泥棒にさせる柿の木を撤去すればいい。

 

必要なのはデザインであって、丈夫な柵や立ち入り禁止の看板や人々を見張る警備員ではないはずなのに、そのことを忘れてしまった建築が多くてげんなりする。

 

 

ひさしぶりに日本のプールに行ったんだけど、まぁ監視員の怒鳴り声がうるさいことうるさいこと。

やれプールサイドは走るなだの、この線から向こうは深いから子供は入るなだの、この線から向こうで浮き輪を使うなだの、食べ物を持ったまま歩くなだの、スライダーは順序良く並べだの、ずーーーーーっっと拡声器で怒鳴り続けてる。デパートでも駅でも空港でも、とにかく日本の施設はうるさい。

プールの監視員をはじめとする施設スタッフというのは、客のサポートをする仕事であって客を監視する仕事じゃないんだけど日本人はそのあたり勘違いしているし、監獄実験のように看守の役割を内面化してしまっている。そりゃ善良な市民が憲兵に任命されたら嬉々として共産主義者を嬲り殺すだろうよという同調圧力が恐い。

 

でもどんなに怒鳴りつけても怒鳴り声が聞こえない人達、たとえば日本語が分からない外国人とか、耳が悪い人とか、そういう人は平然とルールを破る(というか、ルールを守れない、ルールの存在に気づけない)。そしてさらに怒鳴り声が大きくなってルールを守っている善良な市民の苛立ちはルールを尊守しないマイノリティに向けられる。これってバリアフリーノーマライゼーションや弱者救済に向けられる批判と同じだなと思った。

たぶん、弱者救済=まじめにルールを守ってる健常者の迷惑 みたいな図式が成り立っちゃってる。

 

たしかに、ずーーーーっっっと注意事項を耳元で怒鳴り続けられることでルールを守らざるを得ない心境を作ることで秩序を保つ、というシステム下において、ルールを守らない奴は悪でしかない。「オレは我慢してるのにあいつらだけ楽しやがって」となる。

 

だから、秩序と言うのは良心ではなくデザインによって解決すべきものなのだ。

食べ物を持ったまま歩くのは、食べ物を売っている出店と食べるためのテーブルが離れているからであって、それを解決するのは「食べ物を持ったまま歩くな」という看板でもなければ監視員の怒鳴り声でもなく、出店とテーブルを接近させることだ。

競泳用の敷地で浮き輪を使うな、と怒鳴ったって違反する奴は絶対いる。だけどそれは競泳用と遊泳用プールの間にコースロープを一本張れば解決する。

我慢やルールを強いるのではなく、我慢やルールの存在する隙をなくすことがデザインでありノーマライゼーションの目指す方向性だということを日本の建築家は軽視しすぎている。

 

でも日本でもすごい建築家はいるんだよ。有名になれないだけで。

ディズニーランドやジブリ美術館、湯布院や小布施を見習えばいいのに。

ほんとすげぇよあいつら。まじ神。空間の神。

 

 

日本においては、ほぼ全員が日本語の読み書きができてしまう、という現状も状況の悪化に一役買ってると思うんだよね。注意書きがあればそれ守れるでしょ、守らないのは悪意があるからに決まってる例外は認めない、みたいなのほんとぎすぎすする。

なんかもっとこう、私の隣人は私の想像を超える出来事を体験しているのかもしれない、みたいなそういうのを実感できる体験を意識して作り出さなければいけないんだと思う。