ちょっとわかったような気がしたのでメモ。
結論としては、現在では単なる嗜好の違いを発達障害とか偉そうなこと言ってコミュニケーションのコストを発達障害者側に押し付けてないか、という感じのことを書いています。
発達障害の人は別に悪気はなくてむしろ親切でいい人なんだけどただ趣味が根本的に合わないだけなのではないか、つまり定型vs非定型の対立はカプ論争みたいなものではないか仮説。
定型発達と呼ばれているものがいったい何なのかを定義せずに発達障害の人に対して社会適応しろという昨今の風潮は「自分で考えてオレと同じ答えを出せただしオレも正しい答えは知らない」というクソゲーになっててお互い不幸になっている気がしている。なのでいろいろな人といろいろな作業をやってみて、「私は何をどう感じるのか」をいろいろ考えてみてる。
たぶん私は超定型というか逆アスペルガーというか、なんかそういう思考様式を持っていて、とにかく他者の気持ちを最優先したい。参加者全員がいい気分になることが目的だと思っている。
たとえばポーカーでも将棋でも野球でもなんでもいいんだけど何かしらのゲームをやろうという話になったとして、最終目標は参加者全員が満足感を持ってゲーム終了すること、と私の中ではなる。なので勝つためではなく相手が気持ちよくゲームできるような行動をする。気持ちよく悩んで、気持ちよく挑戦して、ほどよくスリルを味わって、楽しく失敗したり成功したりできるようなアシストをする。相手が敵であっても味方であってもそれは変わらない。別にプロの選手ならともかく、わざわざ集まってゲームしようぜとなるくらい仲良しの相手なんだから楽しい時間を過ごしてもらいたいし勝ち負けとかどうでもいいじゃん。せっかく友達なのに空気悪くしてまで勝ち負けを競う意味が分からない。
これがたぶん「定型発達はその場の空気を最優先する」という意味なのではないかと思う。
ポーカーをして私一人だけがカウンティングして首位独走ぶっちぎり大勝したって1mmも楽しくないし、逆に私だけカウンティングできずに惨敗するのはほんとに楽しくないしむしろそんなイジワルする相手を憎む。
でもアスペルガーの人って自分が主催者だったりしても自分ひとりが楽しくゲームしちゃって初心者相手にボロ勝ちして気持ちよくなっちゃったりする。それが逆アスペをものすごく逆撫でする行為だという理解が及ばない。だから相手をボコボコにして「たのしいゲームでした本当にありがとう!」と満面の笑顔で心から感謝してくれる。
と、言うところまではいろんなところでよく言われてるんですけどもその先を解説してくれることがあまりなくて、逆アスペとしては「なんだよアスペってのは他人をサンドバックにして気持ちよくなれちゃうサイコパスなんかよ」みたいな気持ちになってしまうのです。でもたぶんそれは違って、たぶんアスペルガーの人は心の底から真心で感謝してくれてるんだと思う。ちょっと文化のすれ違いが起こってるだけ。
ここからは想像なのですが、おそらく『他人の視点が理解できない』とか言われているアスペルガー傾向の人というのは『ゲームのルールに沿った思考を巡らせること』それ自体に快感を見出すのではなかろうかと思います。将棋なら将棋、野球なら野球のルールに則って最善手を探すこと、そのものが楽しいのでは。カウンティングできて初心者にボロ勝ちするのも楽しいし、逆にカウンティングできずにいいカモにされるのも楽しい。一定の規則に則って勝利条件を目指すという行為自体がとにかく楽しい。だから交流要素の一切ないゲーム、たとえば一人で神経衰弱とかをやっても多分楽しい。でも一人で神経衰弱をやるとどうしても単調になるから不確定要素としての他人がいるともっとたのしい。いっしょに遊んでくれる他人には感謝しかない。なのに定型野郎どもに空気が読めないとか感謝が足りないとか言われて意味が分からない。
みたいな感じではないかなと想像してみた。
たぶん、プロ選手でもプロ博徒でもない一般人が一緒に遊ぶときに相手をサンドバックにして気持ちよくなろうなんて人はなにかしらのビョーキで、ほとんどの人は相手も自分も楽しみたいと思ってる(はず)
ただ『楽しむ』の勝利条件がお互い真逆なのよね…ていう。
初心者相手に考える余地さえ与えず最善手で大人げなく勝つアスペは、たぶん手も足も出ずに速攻負けた相手もゲームを楽しんでいたと信じて疑っていないのでは。そして自分がそうやって負けても全然むかつかないのでは。少なくとも「初心者相手に勝ってくやしがる様子を見てあざ笑ってやるぜぐへへへ」とか思ってはいない。というかそんなことを思っていたらそれは発達障害ではなくて別の病気。
なのよねたぶん。
どの教科書にも書いていないので自信が無いのだけど、きっと自閉傾向の人は『もし自分が相手の立場だったらどう感じるかを想像できない』ではなくて『もし自分が相手の立場だったらどう感じるかを定型と同程度に想像したうえで定型とは違う結論を出す』なのではないだろうか。もし自分が殴られたら嫌だ、だから相手を殴らないでおこう、ができないのではなくて、もし自分が殴られたら楽しい、だから相手を殴ろう、になる。(それとは別に自身の感情を自覚するのがどへたくそでこじれまくるというのも発達障害の問題ではあるのだろうとは思うが、それはまた別の機会に考えてみる。)
私は格下の相手を全力でぶん殴りにかかるゲームメイクを嫌悪する。それは負けて悔しいとかではなく、ネコがネズミを嬲るような残虐さを感じて、それが友人に対してすることかという気持ちになる。たぶん多くの定型はそう感じていて、だから発達障害の人への教育は「他人の気持ちを考えられるようになりましょう」になってしまうけれどおそらくここで言う『他人の気持ち』は『定型様のお気持ち』であってお気持ちは相互に尊重すべきもので片方がご奉仕するものではない。
ぶん殴りゲームメイクは別に悪いことではないしそれで楽しめる人もたくさんいる。
私にはちょっと意味が分からないけど、たくさんいる。
私にはドMと勘違いモラハラSにしか見えないけど、彼らはボコボコにしたりされたりを楽しんでいる。
たぶん。
ちょっと意味が分からないけど、おそらく。
それで、私が発達障害にやたらイラつくのは私が発達障害に搾取されているような気分になるからです。これをyouメッセージにすると「発達障害は定型様にご迷惑をかけているので分をわきまえましょう」という精神科の教科書によく書いてあるみたいなことになるのですが彼らばかりに負担を押し付けるのではなくて私も考えてゆかなければ解決しないと思う。
私は発達障害っぽい人にやたら粘着されます。しつこく話しかけられたりDM爆弾を送りつけられたりゲームでカモにされたり一方的な自慢話をされたりマウンティングされたり、私をサンドバックにしているとしか思えない。これが噂に聞く「発達障害は他人の傷ついた気持ちに気づけない」ってやつか。
とか思うのですが、たぶん彼らは私がこんなにムカついていると気づいてない、むしろ私が喜んでいると思っている気がする。セクハラや痴漢の構造と似てる。
つまりこんな。
私は相手が楽しむことを最優先し、かつ、アスペルガーの人はほどよく勝つことが楽しいのであろうと察知し、その目標に向かって最適なゲームメイクをする。つまり接待する。なまじ頭がいいので完璧な接待ができる。でもそれは私にとってひたすら疲れるご奉仕でしかない。でも完璧な接待だからアスペルガーの人は超楽しんで私のことを気に入る。自分は勝っても負けても楽しいから、まさか私がげんなりしてるなんて思いもしない。
こんなん、私が勝手に忖度して見返りが得られないって怒ってるだけじゃないですかヤダー…
じゃあ忖度せずに圧勝すりゃいいのかというと、私はゲームの勝ち負けに興味ないしなんならゲーム自体苦痛だから圧勝しても苦痛でしかない。じゃあなんでゲームに参加なんかしてるのかと。マゾは私だと。マゾですって公言してマゾ扱いされたって怒るって頭悪すぎる。なにやってんだ私はよ。こんな有様で「私をいじめるあいつらが悪い!」とか言ってんのか脳みそメロンパンかと。ミソジニーこじらせて女をあてがえとか言ってるKKOかと同じ穴の貉かと。
つまり事象定型の私が考えるべきは「なぜアスペルガーは定型様の気に入るゲームメイクをしないのか」ではなく「なぜ逆アスペルガーはゲーム(に代表されるルールに則った思考様式)がこんなに嫌いなのか」なのだと思う。
なんでだろ。
まず単純に、興味が無い。
神経衰弱とか3分で飽きる。賽の河原みたいな気持ちになる。でも神経衰弱は完璧な暗記だからまだイケる。問題は遊戯王みたいな不確定要素モリモリなやつ。乱数えげつないから一番勝率高い定石を淡々と1000回くらい試行するだけのゲームじゃん。あんなん罰ゲームでしかない。
でも別に興味がないだけなら無感情でいられるはずなのになぜか消耗するということはなにかしらマイナス要因があるはず。
無視されたと思うからかな。
相手のやりたいことを察知して叶えて上げる、それが正解だったら相手が気分良くなってお礼に私のやりたいことを察知して叶えてくれる、それが正解だったら私が気分よくなってお礼に相手のやりたいことを察知して叶えて…というのが私にとってのコミュニケーションで、その様式を尊重されないと承認欲求が満たされない。
もしかしてこれが承認欲求ってやつか!
あー、そうかこれなのかーーー。。。。
私は承認欲求とか感じたことないし承認欲求こじらせて変なマルチにはまったり炎上させたり犯罪に走ったりするとか意味分からないし、マズロー間違ってるだろと思ってて、たぶんそれはおそらく私が承認欲求を湯水のごとく満たされていて渇望を全く感じない承認強者だからだろう。
渇望したことが無いから欲求自体を自覚しないし、自分が何を欲しているかすら自覚していない。飢えを知らない子供が食に執着しないみたいな。なるほどこれが強者の鈍感さか。
知らなかったことが知ってることになりつつある体験というのは人生で一回きりで、今私は神ゲーを初プレイしたときのような感動を味わってる。
承認ねぇ。
ほんと意識したことが無いので、ちょっと考えてみます。