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雑記帳

チラ裏なつぶやき。鬱々しい。

仕事ができない人の頭の中を配慮して差し上げるのがめんどい。

なんか、上司がすげー気ぃつかってやんなきゃ仕事できない奴っているじゃん。そういうのほんと迷惑だしそういう人は私の会社にはいらない。て、えり好みできる程度の超零細なんだけど最近そんな殿様経営もできなくなってて超めんどくさい。

細かく進捗確認するとかタスクを分解してあげるとかそういうのはまだいいんだけど、細かく進捗確認しないと仕事できないくせに細かく進捗確認するとご機嫌損ねるとか何様かと。なんで仕事の尻拭いしてやってるこっちがご機嫌とってやんなきゃいけないの。そういう人は刺身にタンポポ乗せるマックジョブ最低賃金もらって暮らせばいいのに。なんてことをこちらさんの記事を読みながら思った。

blog.tinect.jp

 

私がめんどいって思うのは、手間をかけてあげることじゃなくて相手のご機嫌を伺わなきゃいけないところなんだろなと思う。ご機嫌を伺って欲しいんだったらキャバクラにでもいけよこっちは仕事してんだ、って発想になる。

逆に、私が部下の立場だったら上司がどんなに理不尽でもご機嫌損ねたりはしなくて、だからこそ「私には普通にできることがなんでできないの」って発想になっちゃうんだろな。てことは私の怒られ耐性が強すぎるのが問題なのか。

 

なんかもう、子供の頃からすごい理不尽な事柄を沢山見てきたし、いい年した大人がプライド踏みにじられて這い蹲るのとかあたりまえだったからいまさら上司の嫌味の一つや二つかわいいもんなんだよね。だって上司は私を強姦しないし殴んないし。別にいいじゃん怒鳴られるくらい。みたいな。

ただ、私がその境地に至ったのは理不尽な経験を経てかつ幸運なことにそれを客観視できる余裕に恵まれたというとても珍しい状況に置かれたからであって万人に私の感性を要求しちゃいけないんだと思う。

乳幼児にハチミツとか予防接種とか、選択とリスクについての雑感

乳幼児にハチミツを与えて死んじゃった事件がちょっと話題になっていましたね。

 

いろいろ問題や改善点はあるだろうけど、そもそも乳幼児ってやつはハチミツ程度で死んじゃうような、ぽろぽろ生まれてきてぽろぽろ死んじゃう弱い生物なんだってことをもうちょっと自覚したほうがいいんじゃないかなって思った。

www.mamanity.net

魚、ごま、ソーセージ、はんぺん、ちくわ、水道水…

調理器具もスプーンも全部消毒して、食材はすりつぶして裏ごししてスプーン一杯しか与えちゃいけなくて、じゃあ子供に食べさせていいものってなんですかね。めんどいからいっそ点滴でも与えときゃいいんじゃないっすかね。

 

子供が死ぬのなんてすごくあたりまえのことで、10人生んで一人生き残ればラッキーくらいのもんじゃん。それを100%生きるのがあたりまえみたいな現代の子育ては難易度ナイトメアと化している。

 

私は私の子供にいくつかの予防接種を受けさせていない。

哺乳瓶の消毒もしなかったし離乳食だって口移しでやってた。

 

でも予防接種を受けさせるかどうか相談されたら、問答無用で全部受けとけって言うし哺乳瓶は消毒しとけってアドバイスしてる。だって普通の人って死んだり障害を負ったりすることに対する覚悟が全然ないじゃん。まさかうちの子が死ぬなんてありえないって思ってるじゃん。だったらなーんも考えずに医療と国の言うこと聞いといたほうが精神衛生上いいんじゃない?て思う。

 

予防接種を受けようが受けまいが、ハチミツを食べようが食べまいが死ぬときは死ぬ。子育てなんか博打でしかない。どうせ死ぬときは死ぬんだから、私達にできることはせいぜい死に方を選ぶ程度だ。

予防接種の副反応で死ぬのと、予防接種せずに死ぬのと、どちらのほうが納得いくか。あるいは国や世間様の指示を遵守したにも関わらず死ぬのと、自分の本能を信じた結果死ぬのと、どちらが納得いくか。結局そこで判断するしかないんだと思う。

 

あと、確率を持ち出す人もいるけど、疫学としてマクロで考えるときに確率論は有効だけど個人レベルにおいて確率は無意味だと私は思う。

マンボウみたいに数億匹子供を産んで数億回の試行をできるならともかく、私にとっての子供は私の子しかいないわけで、せいぜい数回の試行しかできない中で1000分の一と100000分の一の違いなんて意味無い。1000分の一と100000分の一の違いを実感するには少なくとも10000回くらいは試行しないとじゃん。1回とか2回の試行じゃどっちが1000分の一でどっちが100000分の一かなんてわかんないよ。別にどっちがどっちでも変わんない。

これがたとえば、予防接種しないと90%が死ぬけど、予防接種すると0.01%が死ぬ、とかくらい大きな差があれば個人レベルでも実感できると思うんだけど、小数点以下何桁みたいな範囲だと疫学専門のドクターとかレベルであれば実感できるけど個人じゃよくわかんないな、って自分で子供育ててみて思った。結局強い固体は何しても生き残るし弱い固体は何したって死ぬときは死ぬんだからもう天命だと思うしかない。

 

ただこの辺りの数字感覚って個人差がすごく大きいところだろうから、1000分の一と100000分の一の違いがすごく実感できるって人もいるだろうし私みたいに良くわかんないって人もいるだろうし、別にどっちでも自分にとって納得いく方法を選べばいいんじゃないかなと思ってる。いいじゃんべつに死に方くらい勝手に選べば。

「私の子は私の不合理な選択によって死んだor重い障害が残った」って恥じることなく言い切れる強さがあるなら、ハチミツも離乳食も好きにすればいい。ていうか私は好きにした。

ただまぁ私がその考えに至るまでにはかなり独創的な人生経験を経てきたわけでそれを一般化しちゃいけないなと思うので、病院大好きな人は病院に頼るといいんじゃないかと思います。

 

 

追記

こんなブログを判断の基準にする人はいないと思うけど、一応追記。

予防接種は他人への感染を防ぐという意味合いもある。その意味合いの有効性はどうにもキナくさいところもあるけれど、少なくとも予防接種推進派の人は「いついかなる場合にも予防接種は有効な手段である」と信じている。その中でうっかり日本脳炎やはしかの感染源になってしまったら「あいつが予防接種をしなかったせいで感染症が広まった」ということになる。無駄に他人の逆鱗に触れるのはお互いにとって不幸だ。

というわけで予防接種はしといたほうがいいんじゃないかなと思います。

人に愛される才能は生得的な要素があるという点について

さーて今日はババアの中の中学二年生が大暴れするよ!

いくよーーー

せーの!

 

 

私は人に愛される星の元生まれてきた。

 

うわ。

自分で言っといてなんだけど

 こwれwはwひwどwいw

 

じゃあもういっちょ。

 

愛することよりも愛されることを享受すること

支配されるよりも支配することを選ぶこと

それは悲しく寂しいことだけど、仕方がない。私はそういうカタチなのだから

 

わぁぁぁぁ。

さぶいぼさぶいぼがすごいことに。てかじんましん出そうwww

 

 

でもまぁ、ただでさえ不利な手持ちカードを持って生まれてきてしまったんだからせっかくの有利なカードはきっちり自覚してばっちり使いたいじゃん。キャリアの棚卸し的な。

 

なんか、自分の小さい頃の写真をみるともう天性のタラシって感じ。すっっっげぇかわいいの。自分で言うと馬鹿みたいだけどwロリータ的な美しさとかじゃなくて、「こいつは私が守らねば」という仔猫的なアフォーダンスに満ち溢れてる感というか、母性本能を直撃するフェロモンだばだば出してる。よく知らない人にお菓子貰ったりしてた。

ていうか歩いてたら知らないおじさんおばさんに煎餅とか最中とか昆布飴とか貰うもんだし、どんなに強面のヤクザみたいな人でもすれ違いさまに「めんこいのぅ~v」ってすごいデレ顔で言うもんだと思ってた。傘をささずに雨の中歩いていたら知らない人に傘を貰うから傘立ては知らない人に貰った傘でいっぱいだし、街中できょろきょろしてたら「どうしたの、迷子?」って聞かれるの普通だし、知らない人に道聞いたら「本当は車で行ったほうが近いけど、誘拐だと思われたら悪いから」とか言ってわざわざ車を止めて一緒に歩いてついてきてくれるのがあたりまえ。

 

さすがに大人になってからは仔猫フェロモンダダ漏れではなくなった(と思いたい)けど、やっぱりこの無自覚フェロモンに助けられてることはすごく多いんだろうと思う。いまだにたまにお菓子貰うし、道聞いたら高確率で目的地まで一緒についてきてくれるもん。仕事で対立してる人でも一度対面で話すると高確率で味方になるし。なんだろ、前世でよっぽど徳でも積んだんか。だとしても今生で徳の無駄遣いしすぎじゃなかろうか。

 

 

逆に、憎たらしいフェロモン出してるタイプの人っていうのもいて、特に何もしてないのに表情とか動作とか返事とかがなんか憎たらしい感じで、そういう人ってすごく損してんなって思う。

 

 あと危ない系フェロモン出してるタイプの人っていうのもいて、そういう人は道を聞いたら誘拐されかけるのがあたりまえ、歩いてたらストーカーに狙われるのがあたりまえ、らしい。怖ぇぇ…

 

感覚が鈍いのに感覚過敏という矛盾がずっと疑問だった。

たぶん私はASDADHD的な傾向があるんだけど、あと統合失調症や解離の傾向もあるんだけど、じゃあ私は発達障害精神障害かといわれるとなんかちょっとすごく違和感がある。て言うと、障害者になりたくないとか認めたくないとかそいう障害の否認みたいなことだと思われるんだけど、それもまた違うなぁとなんかすごくモヤモヤしてた。

 

自分と他人が違うということは別にいい。世の中にはいろんな性質の人がいて、その中で私はこういう性質を持っているというそれだけのことにこだわる気はない。

自分が他人より劣ってることも別にいい。むしろ自分より有能な人がいっぱいいて私の代わりに社会を回してくれてるんだから楽できていいじゃん。

私を馬鹿にする人がいることなんて心底どうでもいい。私を見下すことで精神の安定を得られるならよかったねと思う。まぁ実害出るほど邪魔されたら即効排除するけど別にそれだけ。

 

だから別に発達障害だとか精神障害だとか言われること自体には嫌悪感とかそういうのは全然ない。ふーん、現代医療はそういう分類をするフレンズなんだね、くらいにしか思わない。

 

なんだけど、発達障害精神障害の知識が増えて当事者の知り合いも増えるにつけ、このカテゴリに所属することへの違和感が強くなってきた。彼等と私は似ているところもあるけどやっぱなんか違う。

 

なんなんだこの違和感、て思ってたんだけど、たぶんこれASDADHDとその他いろいろでそれぞれに別の違和感があるっぽい。

 

ASDっぽさに関しては、なんかわりと分かるっていうか。空気読めないし読まないし、なんの努力もなしにハイコンテクストに溶け込める人種は化け物に見える。でもハイコンテクストな化け物の存在を認識して分析することができる程度の知能はある。なんなら彼らにコンテクストを与えて支配することもできる。そういう意味で私は高機能な自閉なんだろう。

ADHDに関しては、多動=内から溢れ出るパッションが多すぎる、みたいな部分に関してはちょっとよくわかんない。体力なくてすぐ寝込むもやしだから、パッションに関してはむしろ少なすぎて困ってる。多動=ほんとは疲れきってるのにスイッチが切れない衝動コントロールの下手さ、みたいな部分に関しては、ちょっとだけ分かる。でもものすごく下手ってわけではないのでそんなにわかんない。

 

で、あとは感覚過敏の類で、これに関してはすごく分かる気もするんだけど全然わかんない気もしてて自分でもどういうことかよく分かってなかったんだけど、多分私の感覚はかなり敏感なんだろうと思う。普通の人には聞こえな音も聞こえるし感じられないものも感じられる。なんだけどきっちりカクテルパーティ効果は作用してるからそんなに困んない。感覚受容器からの情報を脳が処理できないのが感覚過敏で、感覚受容器からの情報がどれだけ多くてもその情報を脳がきっちり処理できるのであれば感覚過敏ではない。

逆に感覚受容器からの情報が少なくても脳の処理要領を超えていれば感覚過敏になるんだろう。

この、感覚が鈍いくせに感覚過敏、というのが私にとって意味不明ですごいイライラしてた。同属嫌悪。だって決まった味しか食べれないとか言うくせにぐっちゃぐっちゃのジャンクを平気で口に入れるとか、信じらんない。私の中の常識では、決まった味しか食べられない→味に敏感→じゃあいろんな味の鑑別がつくんだよね、なわけで、でもたぶんそうじゃなくて、決まった味しか食べられない→味覚情報を脳が処理できない→他の味の鑑別はつかない、なんだろうな。むしろ味の鑑別がつかないほど脳のメモリが少ないからこそ味に固執するんだろう。なんか想像するのがむずかしいんだけど、たぶんそういう仕組みで感覚過敏というのは定義されている。

 

 

それから普段どんな環境にいるかという外部要因も大きい。今私は防音のしっかりした自分のパーソナルスペースでごく限られた相性の良い人と自分にとって無理のない範囲で関係を持つ仕事をしているから、不快な感覚刺激はかなり少ない。パチンコ屋みたいなすごくうるさくてタバコくさくてまぶしい場所で仕事をしていたら間違いなく感覚過敏だっただろう。

 

 

あと解離様症状と統合失調様症状に関してもなんかいろいろあるけどそれはまた気が向いたら書く。

そろそろ定型発達を『健常』だと思うのをやめたほうがいい

PTAとか「子供のためになることをする」とか言うから、ベルマークはほんとに子供のためになるんかとか親がつきっきりで開催してやる運動会は果たして子供の情操教育によい影響を与えているのかとかそもそも親だけが子育ての責務を負うこと自体がおかしいじゃないかとか、そういう冷静なツッコミをしたくなる。

町おこしで若者を呼び込む事業とかも「若者の新しいアイデアを活かす」とか言っちゃうからじゃあ新しいアイデア作ろうぜ、つまんない田舎をどんどん変えていこうぜってなるじゃん普通。だってそうしてほしいって言ってるんだから。

 

 

 

でも町おこしなんちゃら事業で田舎の老害が求めていることというのは「村祭りを例年通り開催すること」であったり「年末の餅つきができる体力のある若者を確保すること」だったりするわけで、新しい事業とかオシャレなカフェとかは求めてないわけで、だったらそれは「老害の言うことに従順で、もはや利益を生み出さない形骸化した儀式をタダでこなしてくれる若者を募集してます」って正直に言いなよ。「PTAは暇な主婦が所属欲求を満たすための集まりです」って言えよ。っていう。

 

自分のやってほしいことを明言しないくせにこっちが察してあげないと機嫌を損ねるとか、なんなのもう。

こういう人達って建前部分をみたしてあげればあげるほど出る杭をぶちこわしにかかんのね。PTAが子供のためっていうから極限まで能率化したシステムをつくってあげたり、田舎が貧乏だっていうからすごいイベント開催してお金落とさせてあげたり、数値目標をきっちりクリアすればするほど「結果だけじゃ人はついてこない」とか言い出すんだよ。じゃあ最初から結果を求めているわけじゃないと言えよと。

 

こちらとしては入力された条件に対して最適な解を示したわけで、「ほんとは入力した条件とは違う条件を満たして欲しかった」とか後だしジャンケンされても「はよ言え」としか返せない。

 

 

なんて、思ってしまう私は多分に自閉傾向があるんだろう。

いやでもこれに関してはほんとわかんない。ていうか障害があるのはどっちだよていう。

入力された値に対して正確な答えを出す側と、PCに間違った問いを入力して正しい答えが出て来ないからって激怒してる側、どっちの頭がおかしいかな。自分の基準が唯一絶対だと思い込んでいる自称定型発達たちはそろそろ自分を健常者だと信じ込むことに疑問を持っていただきたい。

世の中には有能と無能の二種類の人間がいる、ということ。

なんかね、将来を見据えた合理的な解決策を考えられる人ってね、空を飛んで移動する鳥みたいな視点なんだと思うんだ。

そんで、将来行き詰ることなんて分かりきってるのにひたすら現状維持して変化を認めない人って、地面に閉じこもるミミズみたいな人生を生きてるんだと思う。

どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、生き物としてのスタンスそのものが違うの。価値を置くものが違いすぎて、言葉は通じても話は通じない。

umebosi.jp

 

てことで、こういった↑発信を告発とか悪口みたいに捉えちゃう人ってほんとにいるんだなぁ、って。

 

んーと、なんか、鳥タイプの人とミミズタイプの人って、仕事とか人生とか目的とかそういう根本的なところで完全に食い違ってるんだろなぁって。

 

地方創生的なところで例を挙げるなら、目的としては町おこししなわけでしょ。地元のよさを外部にも知ってほしいわけでしょ。都会の人に名産品を買ってほしいし、若者に移住してきてほしい、みたいなのがざっくりした目標なわけで。

だったらさくっと名産品をプロデュースして広告打って販路つくればそれで解決じゃん。よーしやろうぜー。PCDAがんがんまわすぜー。

て、考えるのが鳥タイプの人。

 

でもミミズタイプの人ってのは、たぶん全然違うロジックで動いてる。

たぶんなんだけど、彼らは自分たちのやってきたことを否定されることを極端に恐れている。新しいことを始める、が、古いことを否定する、つまりこれまでの自分たちの努力を否定される、につながっちゃってる。

だから彼らにとっての地方創生というのはこれまでのやりかたを肯定することであり、都会から入ってくる若者に求めることはこれまでのやりかたに従うことでしかない。

きっと彼らの頭の中では「これまでのやりかたで絶対にうまくいく。これまでのやりかたに従わない若者が現状を悪化させている」になってるんじゃないでしょうかね。たぶん。

 

まぁ、これまでのやりかたをゴリ推ししてきた結果が現状なわけですけども。

これまでのやりかたじゃ食ってけないから過疎が進んだわけですけども。

 

だけどそんな正論は彼らのロジックの中では「これまでのやりかたに従わない反乱分子」にしかならないわけで。

 

そんなミミズのコロニーで生きていきたいなら、彼らのロジックを理解したうえで逆手にとんなきゃいけないんだと思う。

 

 

あと個人的には元記事の方には、地域おこし協力隊をやめるに至った原因とか行政とのやりとりとかもっと詳しく掲載してほしいなと思いました。やりとりした書類を全公開くらいするとフェアなんじゃないでしょうか。

と私としては思いますが、議論の俎上に乗ることと存在の全否定がイコールで結びついてしまっているミミズタイプの人にとっては閉じた地域でのやりとりを公開すること自体がミミズの存在意義を否定することと捉えられてしまうのでしょう。ほんとめんどくさい。

 

 

 

 

ていうか、私も最近とある分野の学問で長年信じられてきたことが間違いだと証明しちゃったんだけど、まぁすっげぇぇぇ叩かれるのね。E=MC、みたいな誤植レベルの明らかな大間違いが教科書に堂々と乗っかってるっていうのに、間違えを認められない、認めたくないっていい年こいたオッサンが大暴れしてて、まぁ私としては老害が全員死ねば解決なわけで別にいいんだけど、なんかほんと気の毒な人達だなぁと思う。

 

 

 

子供の泣き声を無視できない心理を考察してみた

常に他人の顔色を伺ってご機嫌をとらなければ不安で仕方ない、というパーソナリティは病的だ、というのは多くの人の理解を得られると思う。だがこれを母親と子供にあてはめたとき、常に子の顔色を伺い、子が不機嫌だと不安になりなんとかご機嫌をとろうとする母子関係を病理だと捉えることのできる人は、現代日本ではとても少ない。

 

いや、わかるよ、生まれたばかりの子供はまだ自分の延長で、だから子供が泣いていると自分も不安になるっていう不条理だけど抗えない感覚。

だけどそこを乗り越えて母子分離するのが人格形成の基礎じゃん。ママと自分は別の人間であるということを理解することが人格形成において超大事じゃん。ここはぐっとこらえて乗り越えなきゃいけないことじゃん。

 

泣いている子供はかわいそうで不安で仕方なくて、だからこそ放置しなくてはいけないと思う。とくにハイコンテクストの弊害がこれほど濃厚に出ている現代日本では。

 

前のエントリで『子供の泣き声に反応するのは母親の本能』て意見があったけどそれ日本だけだからね。ヨーロッパでもアメリカでも泣いてる子を普通に放置してるからね。

 

hedgehogx.hatenablog.com

 

むしろ母親は子育てするのが本能、てのも別に普遍的じゃないからね。東アジアだと子育ては親戚のオッサンがやるものだったりするから。そういう地域に行くとガチムチでヒゲで強面のオッサンが子供に大人気で、なよっとした女性が子供をかわいがろうとすると「女のクセに子育てに手を出すなんてw」みたいな反応されるよ。

日本だって一昔前の農家だと子供なんて木にくくりつけておくのが普通だったり、上流家庭では乳母がいるのが当たりまえだったりしたわけで、母親たるもの泣いている子供は何が何でもあやさなければいけないという強迫観念はわりと近年のものだ。

 

今我々が抗えない自然の摂理のように受け入れさせられている観念は本能でもなんでもなくてほんの数十年の間に形成された社会的要請に過ぎない。たとえそれがどんなに強固に作用しているように感じられても、いや、強固に作用しているからこそ、それは単なる刷り込みだ。

だって、もし子供を泣き止ませるのは母親の本能だったらなんで夜泣きにつきあうのはこんなにキツいの?本能を満足させる行為には快感を伴う。不快だということはそれは本能ではないということだ。

本能ではないのに、本能のように思い込まされている、ほんとうはキツいのに、キツいと感じることを許されていない。もしかしたら私は母親として欠陥品だからキツく感じるだけで、他の母親にとって夜泣きに付き合うのはキツくないのかもしれないという疑心暗鬼で孤立する。そのダブルバインドで得をするのは子育てを母親の無償労働で賄おうとする社会と男性と未婚者だけだ。

 

だから、声を大にして言おう。

夜泣きは放置していい。

もしあなたが夜泣きを放置できないほど追い詰められているのなら、誰かに助けを求めてほしい。

 

それを言うことは、夜泣きに付き合った努力を無にすることではないし、夜泣きに付き合って得た精神的成長や充足を否定することでもない。もちろん夜泣きにつきあうのは悪だと言うことでもない。夜泣きにつきあえるだけの余裕があるなら、そして夜泣きに付き合うのが苦痛でないなら、別に好きにすればいい。

だけど夜泣きを無視できないのが母親としてあるいは人間として当然の本能、というのは、夜泣きに付き合えない事情のある母親を排除する言説であり、それを不用意に使うことは他者も自分も追い詰めるのだという構造はそろそろみんな自覚すべきだと思う。