雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

頭の悪い人の頭の中を想像する

普通の人って、学校で習う勉強がはじめて接する学問なんだってことを最近知ったんだけど実はまだ納得できない。

学校で足し算をならうまで足し算を知らないし、面積を習うまで面積という概念自体をしらない、みたいな感じらしいんだけどそれって人としてどうなの脳みそなんのために搭載してんの。百歩譲って高校くらいまでは幅広い分野を学ぶから自分の興味の無い分野だったら学校で習って初めて知ったということもありうるかもしれない。でも大学って自分の専門分野を自主的に選んだわけなんだからある程度の基礎知識があるの普通じゃないの??

 

そして、多くの人は学校で習ったことが正しいことだと思っているらしい。

ええーーーー……

だめじゃんそんな。大概の大学教育って50年くらい遅れてて現場出たら全然使えない4年間をドブに捨てるようなレベルでしかない。偏差値高い大学だといいとかそういう問題じゃなくてカリキュラム自体がほんとクソすぎてどうにもならない。大学の勉強と言うのは、たとえると「1+1=5」くらい使えないものしかない。もう根本から間違ってる。

でもそれも仕方ないことだと思うんだ。だってたったの4年とか6年とかでプロを育成できるわけない。だから最低限行動できるだけの知識を詰め込もうと思ったら不正確にならざるを得ない。だから大学時代というのはテキトーな授業で単位を確保しつつ全力で自主研究する期間だと思ってる。

 

なんだけど、多くの人は学校で習ったことを正しいと思って大学で習ったことを基礎にしてその上に新たな知見を積み上げようとする。

いや間違った基礎の上にいくら正しい知見を積み上げても間違ったゴールにいきつくだけだよ…ていうかそもそも前提を疑うというのがね、学問に対する最低限の作法であってな………

 

もういっそ大学なんて全廃していきなり現場に立ったらどうですかね。

基礎知識を更新できない知能の人に変な基礎知識を詰め込む意味が分からない。

 

 

娘がPTSDになった

今すごく動揺している。

本当はなぜこうなったと後悔したいし、娘に話を聞きたいのだけど、動揺で歪んだ認知で他者に働きかけても事態を悪化させるだけだというのは知っている。だから、私がなにを考えどう感じたか、今私の認知がどれほど歪んでいるのか、ここに書くことで整理していかなければいけないのだと思う。

 

 

経緯としては、

  • ずっと前にものすごい衝撃的な場面を目撃させてしまう
  • 娘、その事件について一切語らなくなる
  • PTSDっぽい言動が発現←いまここ

ものすごい衝撃的な事件というのは、いくら没落しただの失速だの言ってもなんだかんだ平和な日本に普通に住んでる人の大半は直面しないんじゃないかな、というレベルで衝撃的なものを物心つくかつかないかくらいの時期に目撃させてしまい、深刻な生命の危機を感じさせてしまったという一連の事件のこと。

まぁそんなもんを経験したらPTSDくらい普通だよねむしろその程度で済むのすごくない?くらいな。

再発防止策は徹底的に容赦なくとったし、起こったことは仕方ない。記憶はなかったことにできないというのはよく知ってる。だからある程度予測と覚悟はしていたのだけど、でもやっぱりきつい。本人が一番きついだろうけど私にとってもすごくきつい。

 

 

 

前回、親にならなければ分からないことがある、と書いたけど、親になって一番きついのがこういうタイプの心理攻撃だと思う。

 

私が傷つくのは平気なのですよ。

赤の他人が傷つくのなんてもっと全然平気。

だけど、私にとって一番大切で守りたいと思っていて、だけどあくまで他者である私の子が傷つくとどうしていいか分からない。あの子は私とは別の存在で、だけどつい私の延長と捉えてしまう程度には私に依存している。

 

自分のことと子供のことで手一杯で、だけど私が崩れたら子供を守れないから死ぬ気で、いやむしろ死んでも逃げることができない。気分は弁慶の立ち往生ですよ。

そんな崖っぷちで死体になりかけながらなんとか留まってるときに、「親は子供の面倒をみて当然」といういつまでも脳みそがお子様な子無し様の言葉で崖につきおとされる。

 

いやね、子持ちマウンティングはウザいかもしんないよ。私にそのウザさは永遠に分からないから、私のほうがつらいんだとは言わない。だけどあんたら自分のトラウマだけと向き合ってればそれでいいんでしょ。それがどんなに大きな傷でも、自分だけの責任で自分だけで抱え込めばそれで済む。

そんなお子様ランチみたいな人生送ってるやつらに文句とヘイトを向けられる筋合いはない、と思ってしまう。

 

とまぁそんな感じて、人間心理あるあるの「解決不能に思える問題に直面した際、問題解決から目を逸らすために仮想的を想定し攻撃する」をやってみた。子無し、すまん。僻地ブログでわめくだけなんでそっとスルーしてくれ。気に食わなければ噛み付いてくれても私は構わないけど、そうしたら私も全力で手斧を投げるのでよろしく。

 

 

子供のいない人はずっと子供マインドのまま生きてるから成長できない

なんか、子持ちマウンティングがうざいみたいな記事がホッテントリにあがっていたので思ったこと。あんま元記事の内容とは関係ないです。

 

子育てというステージをクリアしないとといくつになってもいつまでたっても子供目線しか持てなくて「電車で騒いでる子供を注意しないのは親の怠慢」とか言っちゃうよね、ていう。

なんかもう誰かが自分や他人の面倒をみてくれるのが当然、指導してもらえるのが当然、養育は愛だから労力なんか考慮しなくていい、愛は無限に搾り出して搾取できる、みたいな、そんな常識を更新できないっぽい。

電車で騒いでる子供がウザいと思ったら、それはあなたと子供という二者の問題であってあなた自身が子供に交渉すべきなんだけどなんでそこで親が出てくるかな、ていう。なんで子供の行動全てを親が管理できるなんていう幼児期の幻想を持ち続けていられるのかな、とか。

 

たぶん、子供の言動を管理するのにどれだけのリソースが必要かなんて、考えたこと無いんだろな。

ママはいつでもおいしいご飯を作ってくれてお弁当を用意してくれるのがあたりまえで、そこに費やされる労力と葛藤はおよそ人間に要求できるレベルをはるかに超えていることとか、考えたことがないんだろうな。

ほんともう子育てってすっげぇきついんだよ。HPだけでなくMPがごっそり削られてトラウマ踏み抜かれてそれでも日常のタスクは免除されないんだよふざけんなセーブポイントくらい作れよ。

 

 

 

貧民の介護はどうあがいても貧困を再生産する構造について考えた

以前、医療介護という仕事の構造上、医療費が国庫を圧迫している以上絶対に景気回復しない、みたいなことを書いた。

hedgehogx.hatenablog.com

 

一億総中流だとか景気が良い状態というのは産業革命以降の大量生産使い捨て文化によって支えられていて、大量生産しつづけないと維持できない。でも医療介護はどうがんばってもマンツーマンの仕事で、たとえばミュージシャンは何千人もの人に同時にCDを買わせることができるけど、一人の介護士が1000人のオムツを同時に変えることはできないから、どんなに人手不足でも介護士は貧困水準の給与しかもらえない。だって介護士はそれくらいしか稼げないから。

 

そう考えると結局、貧民がいっちょまえにオートクチュールを求めるからだめなんだなと。

貧民は貧民らしく地べたにはいつくばって大量生産品を消費してればよろしい。量産品で対応しきれない規格外の貧民はさっさと死んで来世に期待。それは不幸なようにみえるが案外気楽で幸福な世界になりうる可能性を秘めていると思う。

大量生産品しか消費できないなんておもしろくない、と思うかもしれないがバブルの時代だって庶民は馬鹿みたいに高いだけの大量生産品を消費していたわけで、現在でも庶民は量産型の家に住み量産型の教育を受け量産型の労働者になっている。

規格外の貧民は死ね、というのは条件によってはかなり残酷にもなりえるけれど、豊富な石油や代替エネルギーが補償されている現在では、飢えも凍えも殺されもしない。食べ物が無いから人肉食うしかないという天保の大飢饉みたいなものではなく、ただ単に過剰な介護が必要になったら死ねというだけ。そんなの生物である以上当然じゃん。

誰も望んでいない苦しいばっかりの延命に疑問を持つ人はどんどん増えているし安楽死は非合法にも関わらず自分で死期を選ぶ人もどんどん増えている。

 

ごちゃごちゃ言ってないでみんな早く死ねばいいのに。

 

 

もしかしたら私は生活保護並みの費用で暮らしているのかもしれない疑惑

どっかで、家族4人で保護費が30万みたいな記事を読んだんだけどこれまじですか

なんか調べたら、家族3人だと10万プラス家賃くらいっぽい?

これで医療費や税金払わなくていいんだよね。あと仕事にかかる経費もなくなるわけだよね。てことは使うのは食費光熱費娯楽費くらいてことであってるでしょうか。ほんと知らないのでこの前提自体が全くの勘違いという可能性もあるけど、とりあえずこの前提で話を進めます。

 

よくわからないんだけど、もしそういう前提であってるとしたら私普通に家族三人で10万プラス家賃で暮らしてるよ!だって接待費とか交友費とか出張の交通費とか設備維持費とか人件費とか開発費とか税金とか工場とオフィスの家賃とか、そういうの全部免除なんでしょ。家族の食費と自宅のガス水道電気、あと通信費、娯楽費、とかそういう自分のためだけの消費ってそんなもんじゃん。

え、これって貧困といわれる水準なの?みんな何にそんな金使ってんの??

別に普通に毎日楽しくご飯食べて時々遊びに行ってそこそこ楽しく暮らしてるつもりだったんだけど。ご近所さんと同じくらいの生活水準だと思ってたけど、違うの…?え、もしかしてすっごい貧乏な家に思われてる??いやでも友達に何か言われたことはないし、見た目とか別に普通のはずだけど。。。

 

 

 

なんだろう、なんか多分私すごい見落としをしてるんだと思うんだけどそれが何なのか分からないからすっごいモヤモヤする。

 

だって実際に10万で足りないという人がいっぱいいて、今成なんかすごい治安悪かったりして、貧困の連鎖とか言われてて、貧困を苦にして病んだり死んだりする人がいるくらいなんだから、やっぱり10万は圧倒的に足りない金額なのだろう。食費光熱費娯楽費以外になにかすっごい必要なものが多分あるはず。

んーと、灯油?防寒?雪国なら多分死活問題だよねぇ。灯油ってそんなに高いんだろうか。

教育にはお金がかかるよね。大学費用として子供一人につき最低1000万くらいはためときたい。でも生活保護家庭の子供は奨学金とかもらえるんじゃなかったっけ。いやとはいえ今の不完全すぎる奨学金ではあまりに足りなすぎるからやっぱ貯めないといけないと思う。そう思うと月10万はきついなぁ。

そう考えると、10万では将来への投資の部分が足りないかもしれない。貯金ゼロで土地も車もなにもかも無しで、月10万の収入しか無いのであれば事業を起こすのも相当大変そう。設備投資も教育投資もできないし、ハブとなる人に会いに行くこともできない。何ヶ月かだらだら遊ぶなら十分だけど人生を考えたときに月10万では足り無すぎる。一生飼い殺されるしかない。

 

でもなんか、生活保護って昔社会の教科書に書いてあったみたいな替えのパンツすら買えないレベルのものを想像してて、せいぜい家賃込みで月8万くらいなんかと思っていたんだけど、そういうのじゃないらしいことが知れてよかった。飢えない凍えない生活ができるんだ。

すっごいこなみかんだけど、日本すげぇ。

 

 

 

 

 

 

多重人格を説明することの困難さを考えてみた

解離性同一性障害、一般的に言われる多重人格、というのはどうにもファンタジックな設定がついてまわって、がんばって説明すればするほどうさんくささが増してしまうジレンマについて。

 

たとえばよくあるのが「私の中の別人格は普段は眠っているんだけどピンチになると表に表れて私の体を動かすんだよ」とか。

当事者にとってはそれが一番しっくりくる説明なんだけど、普通の自我の形態しか理解できない人には意味不明だと思う。脳みそに複数の小人さんが住んでるのか?みたいな解釈になってしまいそう。

ちがうんだよどの人格も全部私の一部なんだよ…私が複数いるんじゃなくて、私がバラバラなの。バラバラの自分を自分と実感できないくらいバラバラなの……

 

つwたwわwらwねwえwww

 

あと、人格の人数についてとかも。「私の人格はおおむね30人前後、常に分裂と統合を繰り返しているので数は不定です」とか普通に意味分からないよね多分。

それとか心象風景についてもな。「ネコの人格のときはにゃあとしか言えません」とかほんと意味不明だわな。なに脳みそにネコ飼ってんの??イメクラ?みたいな。「私の子供人格はピンクのお菓子でできた家で眠っています」とかそういう系統の説明も。なにその家どこにあんの、住所は?みたいな捉え方されると思う。

ちがうんだよネコも砂糖のおうちも全部暗喩でありモティーフにすぎないんだよ。その家どこにあんの、ていうのは 鬼ヶ島って何県にあんの、くらい的外れな問いなんだ。

 

でね、一番困るのが、当事者自身が現状を(あるいは他者の認知様式を)把握できていないこと、なんだよねーーー!

渦中の当事者の感覚としては「別人格は普段は眠っているんだけどピンチになると表に表れて私の体を動かす」としか説明しようがない。それを「解離性同一性障害は人格が複数あることではなく、一つの人格すら維持できないことです」なんて説明できるのはもうかなり統合が進んでるよね。ほとんど治りかけくらいの状態でないとそんな説明できない。

別に解離に限らず、敵を知り己を知れば百戦危うからず、なんて、何が問題かを把握できれば問題を解決できたも当然、みたいなことは普遍的な現象で、当事者は当事者である限り自分のことをうまく表現できない。

だからこそ当事者じゃない人、とくに精神医療に携わる医療関係者にがんばってもらいたいんだけどあいつら薬と入院で儲けることしか関心なくて全然仕事しないからね。(※注意 でも薬はきちんとのみましょう。自己判断で絶薬せず主治医をガン詰めするかセカンドオピニオンを求めましょう。)哲学者のほうがよっぽどいい仕事してるけど哲学者は一般人に分かりやすく説明することを放棄してるしなぁ。

 

 

 

そもそも、言語というのが多重人格を想定していないからどう表現していいのかわからないんだよねぇ…

 

「赤」という言葉がこの世になかった原始時代に、人間がどのようにリンゴの色を捉えていたか、みたいな命題。赤という言葉を知ってしまった人類はもう色のないリンゴ失った。

人間誰しも幼児のころは言葉を持っていなかったので、言葉で表現できない事柄というのは誰でも体験しているはずなんだけど、何かを新しく知ってしまうと知らなかった自分には戻れない。だから、それを表す言葉が無い、ということの恐ろしさ苦しさを自覚することはとても難しい。

 

解離というのは、言葉を奪われた状態、つまり色のないリンゴとたった一人で向き合う体験なわけですよ。

根や、公園の鉄柵や、ベンチや、禿げた芝生などは、ことごとく消えてしまった。物の多様性、物の個別性は仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。あとは怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った。-むき出しの固まり、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である-

サルトル 『嘔吐』

サルトルさんの気持ちはめっちゃわかる。目の前の事柄の意味が全て抜け落ちてやたらデティールに凝ったモザイクみたいに見えて気持ち悪い。普通に吐く。 

 

 

それとか、最近だったら毒親とかセクハラとかの例のが分かりやすいかもしれない。

ああいう言葉も10年前にはなくって、実家にいると死にたくなるとかオッサンにケツを触られる苦痛というのは自覚できなかったけれどそこに確かに存在していた。存在していたけれど意識の上では存在していなかった。毒親もセクハラもDVも、集団催眠ならぬ集団解離とでも言うべき現象で、そこに言葉を与えて語ることができるようになるプロセスは解離の治癒過程をそのままなぞっている。

とかね、そういうの、精神科医ですら理解してないからねー…

解離性同一性障害っつったらむやみやたらに統合しようとしてくる医者やカウンセラーが普通にゴロゴロしてる。てか統合と抑圧の区別すらついてないとかよくそれで臨床に立てるなぁ。いや逆に現状の精神科医療の矛盾を理解できないからこそ臨床に立ち続けることができるんだろうけど。

 

あと単純に、「私」って一人称を書いたときにこれは全体としての私なのか、人格としての私なのか、みたいな書き分けが地味に悩む。いちいち解説入れるのめんどい。

一人称を書き分ければいいのかなとも思ってみたんだけど、それはそれでなんか中学二年生みたいで嫌だ。ていうかこの話題はなんかもう全体的に中二感がすごくて嫌だ。なんで私、自分設定を長々説明してんの。もっと普通の人の日記みたいにカジュアルに自分を表現したいんだけどどうすればいいんだろう。

 

 

 

人格統合かと思ったらむしろ逆でちょっとしょんぼりした夢分析第二弾

正月に実家に帰ってSAN値が削れてる人たちのエントリがはてなトップに多くてほっこりした2018年の始まりでした。この宇宙から実家という概念が消滅すればいのに。

 

そんで最近見る夢を勝手に夢分析モドキしてみた自分メモの第二弾。

めっちゃ死にたいとか言ってるのでそういうの苦手な人は見るのやめておいたほうがいいです。

 

以前、子供のころからの夢がどのように変化してきたのかを自分なりにまとめてみて、夢なんてのは無数にみてほとんどを忘れるものなのでそれを思い返してまとめて当時の状況と結びつけて分析するということは恣意的な要素がほとんどを占めて、それは己に名をつける呪、つまりナラティブアプローチなんだな、と味を占めました。

通常のナラティブアプローチだと事実(と本人が思っていること)を基にするという制限がかかるので覚えていることが極端に少ない&過去を捏造している可能性が否定しきれない私の場合不利だけど、夢であればどんな状況を描写しても許されるので自由度の高い書き換えができるというのも利点。

なのでこれからも積極的に書き散らして自分流解釈を生産していこうと思います。

 

 

とりあえずこれまでの夢の変化としては

  • 高いところから落ちて死ぬ夢
  • 自分が殺されるところをエンドレスリピートの夢
  • 自動車暴走の夢→自殺衝動を自分でコントロールできてない
  • 刑務所入所の夢→自殺を実行できない場所に監禁される

と変化してきていて、ここまでの流れは自分の自殺衝動を自覚するプロセスなんだろなと思っている。

一番初めの、高いところから落ちて死ぬ夢、というのも怖いとか死にたくないとかそういうのが全然無くて、やっちまったなー、みたいな他人事感がすごい。

二番目の、自分が殺される夢では、死を意識しているという点で一歩深まってはいるが、死のモティーフははじめ他殺という形で現れて、死にたいという自主性は外在化され他者として認識されている。だがこの他者の存在感は希薄で、あくまで自分がどのように殺されるかを他人事のように観察するという他人事感がすごい。生存本能とか生にしがみつくとかそういう感じが一切感じられない。殺される自分を天井あたりから眺めているという第三者視点になることすらなく、あくまで自分の意識が入った自分の体が死ぬのを眺めている。死と死に伴う苦痛なんて解離する必要すらないささいなこと、みたいな所、ヤバ味があってわりと好き。

三番目の、自分の乗っている車のブレーキが壊れて止まらない夢、というのでやっと死に対して多少の自主性が現れている。車という、コントロールできない他者のブレーキが壊れているというこれまた他人事感あふれる不完全な自主性ではあるが少なくともそこに何かしらアプローチ可能な問題が存在しているという自覚は出来てきている。

四番目の、刑務所に入所して絶望している夢では「刑務所なんか入っちゃったら24時間監視されておちおち自殺もできないじゃん」と思っていて、ここでやっと私は自分の自殺衝動を自覚した。

 

そして自殺したいと思う状況を恐れているのではなく、自殺の手段を取り上げられることを恐れているのだということがやっと分かった。

死ぬこと自体は別にそんなにたいしたことじゃないと思う。だってみんな死ぬんだし。それが今でも100年後でもそんなに変わらない。死に伴う苦痛も、まぁ直面したら大騒ぎするけど別にお化け屋敷できゃーきゃー言うのと変わりないエンタメの延長にすぎない。それよりもやりたいことがやれないことのほうがよっぽど重大。もう絶望しかない。そんなの生きてる意味ないじゃんむしろ積極的に死んで来世に期待したいところじゃん。安楽死超歓迎。自分のことが知れてよかった。

 

と、ここまでの流れは自分にとって何が一番大切なのかという価値観を自覚する夢で、どこまでいっても自分自身だけしか出てきていなくてとんだナルシストだったわけなんだけども、最近の夢は少し毛色が違って徐々に他人が出てくるようになってきた。

思えば暴走自動車の夢では対向車や歩行者、刑務所の夢では同房の受刑者と地味にモブが顔出してたけども今度は名前の無いモブではなくてきちんと役割のある他者が出てくる。でもそこで出てくる他者はやっぱり私の別人格でしかなくて、なんだよやっぱナルシストかよorzてなった。まぁいいや。どうせ私は自分のことしか考えられないサイコパスナルシストだもの。。。

 

 

 そして夢に『兄』を象った別人格が出てきて他人を撃ち殺しまくるのを眺める夢を見るようになったんだけど、これって人格統合的な流れじゃね?俺すごくね??

『兄』というのは『私』と完全に断裂した、つまり深層心理に押し込めた人格の破片で、その『兄』を『私』が自覚した、あまつさえ『兄』の望みを夢と言う形でかなえた、というのは『私』が『兄』を自分の欲求として自覚し統合するプロセスなのではないだろうか、

 

…みたいに思ったけどなんかちがったっぽいorz 

 

 これ『私』が『兄』を取り込む話じゃなくて、むしろ『兄』に象徴された存在は単に抑圧された感情なんて単純なものじゃなくて、多分これ『私』と『兄』が人格として互いに独立するためのプロセスだ。

 

そっかー…

まぁそうだよねーー…

 

そもそも過去に抑圧された感情、なんていうシンプルなものだったら鬱病とか統合失調症とかになるよね。それか共依存とかアダルトチルドレンとかそういう形になりそう。そこであえての多重人格を選択するんだから、そりゃ当然切り分けた自我の破片は 人格として成り立つくらいの容量があるよね。

でもそこはせめて、トラウマを引き受ける人格とそれによって生かされた人格、みたいな典型的な解離であれば自信を持って解離性同一性障害ですって言えたのになぁ。たぶん私の場合、意識の分断ではなくて、普通の人が無意識として知覚していない部分を他人格として扱ってる疑惑が上がってきた。なにそれめんどくさ。みんな無意識なんて全部ゴミ箱につっこんで生きてるんだから私だってそうすればラクなのに。

 

 

あと私の夢に私と私の別人格しか出てこなくて、どこまで行っても他者が出てこない、というのも、たぶんこれ私の他者認定が厳しすぎるからだ。私の認識する『他者』は私の感覚器が情報を捕らえ私の脳が解釈したものにすぎず、それは本当の意味での他者ではなく私が私である限り他者に出会うことはできない、みたいななんかコギト的な哲学っぽいことを煎じ詰めると私の夢には私しか登場できない。

 

なので今度気が向いたら、兄が銃を乱射しまくる夢がガラス越しに人形に見据えられる夢に進化した話を書こうと思います。