雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

ババアが若者に説教を垂れてみる

ババアなのでチャレンジしている若者をみるといろいろとアドバイスしたくなります。でもかつて若者だったババアは老害の説教がウザいということを忘れるほど耄碌はしていないので自分のブログでこっそりとエア説教します。ババアが気分よくマウントをとるだけの内容です。

 

こちらの堀元さんという方は、DASH村のような村をみんなでつくるプロジェクトをやめるそうです。今回はこの堀元さんにババアがこっそり勝手に説教します。レッツ老害

ken-horimoto.com

 

ほめるところ

まずね、この人のいいところね。

最初にいいことを言ってから改善点を言う、これマネジメントの基礎なんで、まずいいところ書くよ。

 

まず、いろいろやってみる根性は見上げたもんだと思うよ。それで出資を集められてしまうのもすごいこと。ババアなんて人に会うどころか服着て外出するのすらハードル高いもの。毎日誰かに会ってビジョンを語る情熱があるというのは(たとえそのビジョンが薄っぺらいものであっても)一種の才能だから大事にしたほうがいい。

 

あと打たれ強いのもね。

批判も炎上もめちゃくちゃメンタル削るから。まず内輪もめしても最後は大人の対応できるの偉い。批判のコメントをちゃんと読んで反応返せるのもえらい。普通の人ならこの時点で潰れてるから。一度訴訟されてるのにめげないのもえらい。ちゃんと後始末してるのも偉い。私はいつも撤退は丸投げするもん。

 

それと、そこそこ公平で冷静なところとかもなにげにえらい。

雇った人たちが次々やめていってしまう、部下とうまくコミュニケーションがとれないという最大の問題はあるにせよ、関係がこじれてしまった仲間に対して殴り合いの喧嘩とかパワハラとかせずに対応できたのはほんとえらい。これができないオッサンいっぱいいるから。私もちゃんとできてる自信はない。

 

それに、自分の気持ちを赤裸々に発信できるというのも強い原動力になります。たいていの願望は口に出しているうちに誰かが勝手にお膳立てして達成させてくれます。

 

あと、これも実は結構貴重な知見だと思う。

結局のところ「大きな労力をつぎ込めばお金にはなる」という当たり前の結論を導いただけだった。

スタートアップの何が大変って、「そんなことできっこない」という自分の思い込みを超えることなんで。 だいたいのことは行動しさえすれば達成できる、というありふれた事実を行動レベルで実感できているということは今後の機動がぐんと上がる。よかったね。

 

ねぎらうとこ

堀元さんが人の心を持たないサイコパスとかでない限り、今回のことできっと結構凹んでいると思う。炎上も批判もヘイトも自分で感じている以上にメンタルを削る。挽回しなければと焦ってさらに風呂敷を広げてしまったり、エベレストに登って死んじゃったりするのはこういうときだ。

こういうときは精神のバランスが取れないから、批判やヘイトを真摯に受け止めて鬱になるリスクだけでなく、仲間の耳触りのいい言葉に慰められてハイになるリスクも大きい。とくに昨今のツイッターは身内だけの心地よい世界に浸ってしまいやすい。

だからできればアンチとも仲間とも距離をとってネットと人間関係を切り離し、ゆっくり休んでほしいなと思う。

 

改善したほうがいいとこ

さて。ここからが本題なんだけど、堀元さんはわりかしビジネス的な才能がある人なんだと思うんですね。自分の情熱を感染させ人とお金を動かすことができる人なんだと思う。

逆に、刺身にタンポポ載せるような単純作業はすごく苦手なんだと思う。

あと、なまじ非凡だから平凡な人の気持ちが分からない。

 

うん。めっちゃわかる。

新しいことを始めるときのヒャッハー感すごいよね。あれを知ったらもう後に戻れないくらい強烈な快感で、私なんていい年していまだにあれを追い求めてるしヒャッハーできなくなったら潔く死ぬ。

でもある程度の事業規模になったらヒャッハーなタイプの人たち以外ともうまくつきあっていかないといけないのですよ。平凡で善良な市民は平然と出る杭を叩き潰してきます。彼らをうまくあしらわないとビジネスはいつか必ず潰される。ビジネスが成長できないとかでなくて、彼らに足を引っ張られて再起不能になるまで潰されるんです。彼らの行動原理は「みんながやっているから」「偉い人が言っているから」「自分の気分がいいから」です。合理性とか正しさとか全体の幸福とか持続的成長とかそういうマトモな理論は通じません。

これは文化の違いなので彼らはそういう部族の人なのだと思うしかないです。首狩り族に首を狩るなと言っても仕方がないので自分の首を防御しましょう。 

 

 だから堀元さんが今後、逮捕前のホリエモンとか某高知のブロガーとか某妙ちきりんな名前のブロガーとか某元東電の童貞イジリ女性とかのような中身のない炎上だけを繰り返したい、誹謗中傷もヘイトも逮捕も辞さないというのであればいまのまま純真な真心だけを発信していけばいいけど、ちゃんとビジネスとして自分の功績を世に問いたいのであればもう少し社交辞令を身に着けたほうが安全だと思う。

 

ビジネス撤退の理由として「飽きた」というのを上げてるの、私はすごい納得できる。個人ビジネスの原動力は個人の熱意だけで、熱意が無ければ何も始まらないし熱意さえあればなんでもできる、熱意は宇宙で最も貴重な資源、というのすごいわかる。 

でも、毎日決まった時間に出勤してれば給料が振り込まれるのが当然の権利という人たちにとって熱意なんて甘えにしかみえないんですよ。サラリーマンは仕事に熱意なんか感じたらやっていけないんです。だから飽きたからって仕事を放り投げることができる(ように見える)起業家がうらやましくて憎くなるんです。そして彼らは自分の羨望感をねたみとして他者にぶつけることにためらいがない。

そんな人たちがわんさかいる中で、一人一人に説教して考えを改めさせるよりは彼らをいらだたせない振る舞いで偽装するほうがよっぽど楽で安全です。

 

ということで、猫をかぶるほうほうを覚えたほうが能率的だよというババアの説教でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頭が悪い人は不確定な未来を想定できないという点について

このあいだ久しぶりにカードゲームで無双して、そのあとオセロでボロ負けしてわりと楽しかったのでメモ。オセロのふわっとした独特の定石だけはいまだに意味がわからない。。

 

私はプロのギャンブラーで食ってけるんじゃないかと思う程度には賭け事に強いです。でも別に百発百中完全勝利ではなくて普通に勝ったり負けたりする。ていうか、ある程度確立したルールの中でゲームをすれば予知能力でもない限り、全勝するのは不可能です。

100%勝つとか100%負けるとかいう極端な状況であればだれだって正しい判断ができます。問題は勝つか負けるか微妙なライン、つまり、勝率49%を捨てて勝率51%を選択できるかどうか。ギャンブルに強い人は常に51%を選択できます。だから私も個々の局面では勝ったり負けたり、そんなに強くなかったりする。でも長い目で見たときにひっそりと財布が厚くなっています。

 

100%を選択するのは誰でもできるけど、51%を選択するには膨大な知識と知能が必要です。カードゲームであれば場に出たカードをすべて暗記するとか、将棋であれば定石を何万通りも覚えるとか。そこまで努力しても勝率は51%なので素人目にはたいしたことない無駄な努力に見えてしまいます。

局所的にみれば、51%も49%の違いなんて誤差みたいなもんです。そしておそらく、多くの人にこの誤差の重要性は理解できない。たった数%の確立を上げるために莫大な努力をするなんて無駄、もっと分かりやすい成果を、という発想が昨今の大学予算削減であったりモリカケ不要論であったりするのでしょう。

 

頭のいい人が51%の話をしているのに、頭の悪い人が「でも100%じゃないしお前の予想このまえも外れたじゃん」と噛みついているのだということに、頭のいい人たちはもう少し自覚的になったほうがいいと思う。

 

たとえば「共謀罪で国が亡びる」という言説があったとして、「でも共謀罪成立しても逮捕されてないじゃんバーカバーカ野党は無駄ばかり」とか言う人が結構いるんだけど、「共謀罪で国が亡びる」というのは「共謀罪(を発端として今後発生するかもしれない状況)で国が亡びる(可能性が51%くらい存在する)」という意味なんで。でもそこを丁寧に説明すると100%しか理解できない人は「51%なんて低い可能性を考える野党のバーカバーカ」ってなる。

ちがうんだよ51%を全力で考えるのが未来を作るってことなんだよ…

 

でも普通の人は場に出たカードをすべて暗記するとか無理じゃん。

だからたぶん、政治における51%も理解できないんだと思う。ブタに言葉を教えるのと同じくらい無理。だから人間様がブタに歩みよるしかない。

複雑で正しいことを暴力的に単純化するのはめちゃくちゃ大変ていうか不可能なことだけどがんばるしかない。すごいめんどいけど。

 

 

 

 

虐待や安楽死に対する潮目が変わった気がする

自殺を許さない時代

2004年のアシュリー論争の時代には、安楽死絶対許さん、自殺ダメゼッタイ、家族の愛さえあればどんな障害でも救われる、という地獄みたいな思想がはびこっていました。

そのころの病院には管まみれのゾンビみたいな老人があふれかえっていたし、気管挿入も胃瘻も死ぬまで取り外せなかったし、たとえ100歳のばあちゃんでも死ぬ前に黒こげになるまで電気ショックをしておかないと訴えられた時代。

私も「金の出所である家族の意志が最優先。患者の意志は尊重しない。それを受け入れることができなければ病院勤務はできない」ってガチで言われました。殺してくれと毎晩叫んでるのに殺してもらえない人たちになにもできなくて結構病んだ。

 

相模原の重度障害者大量殺害事件のときにもまだ、障害者にも生きる権利があるはずみたいな的外れな言論が目立ちました。

たびたび書いていますが、私は相模原の事件は有益とはいえないが仕方のないものととらえています。殺されたのは重度の障害者です。最重度の障害を持つ人たちは一生病院で過ごしメディアにも出ないため、健常者や一般の障害者には彼らの実態が想像できないのだと思います。

医学が発達しすぎた現代の重度障害者はテレビドラマに出てくる程度の障害者、ちょっと手足が無いとかちょっと暴れるとか、そんなお気軽なものではありません。我々は生死を操る神の領域に踏み込んだことを自覚すべきです。

 

生の地獄が選択できるようになったのだから死の救済も認められなければ、この世は地獄と化します。いや、現在進行形で地獄と化しています。

 

自殺を許さないとか、親の育児放棄を許さないとかいうのは一見正義に見えます。そりゃ人間生きてた方がいいし優しい親に育てられた方がいいに決まってる。でもそんなうまくいく関係ばかりではないし、うまくいかない関係にしがみつくと破綻するのは当然。

でも2016年の相模原事件の時点では医療福祉育児の分野での「しんどい」「つらい」みたいな言葉が封殺されていました。医療の発展、社会福祉の脆弱化、SNSの罵詈雑言、核家族の進行などにより当事者と家族の負担が等比級数的に増えているのに、世論は家族愛で面倒がみれるはずという障害者私宅監置法の時代から進歩していませんでした。

虐待や殺人事件があっても加害者の親を糾弾する言説がほとんどでしたし、過剰報道で加害者の関係者を追い詰めるのにもためらいがなかった。親を擁護する発言なんかしようもんなら袋叩きにあっていました。

 

 

自殺も他殺も認める時代

でもなんか、最近潮目が変わったなと。

いやn=1の雑感なんで正確な時期とかは分からないけど、確実に何かが変わってきているなと思う。

 

2010年くらいから少しずつ、本人と家族の要望があれば延命しないという選択が増えてきた気がする。

 

2016年くらいからだんだん、このブログに「子供 殺したい」で検索ヒットする人が少なくなってきた。検索ボリューム自体はそんなに変わっていなかったから、これは「子供 殺したい」で検索したときに私の駄ブログより上位表示される記事が増えたということだろう。

 

今年に入ってから、核家族で福祉がなくて、家族連座制みたいな連帯責任を負わされて、死んだり殺したりして当然なくらいみんな詰んでるよね、と堂々と言えるようになった気がする。

 

 

子供の虐待死のニュースがあって、あれほんといたましくて見出ししかみてないんだけど、

schoolholocaust.hatenablog.jp

この事件でもお決まりの「加害者の親を死刑にしよう」みたいな言説も確かにあったけど、それよりも「親は殺人者であると同時に犠牲者である」という言説のほうが増えてきた。

 

 

多くの乳幼児育児中の母子の関係は、あまりに偏っていて特殊だ。

(1)批判されない ―― 家庭に他人の目はない。
(2)関係が完全に固定 ―― 母子は常に一緒で離れられない。
(3)反論・反撃されない ―― 母子の言語能力と腕力に圧倒的な差がある。
(4)拒絶・逃走されない ―― 幼い子の母親に対する信頼は恐ろしいほど絶対的。

子への苛立ちは断ち切れるか?――母が子を正論で追い込む : MAMApicks -子育て・育児・教育ニュース&コラムサイト-

 

 

芽衣さんが「これ以上お母さんを続けられない」と言える社会であれば、この子どもたちは死ななかっただろうと思いました。子育てが上手な人も、そうでない人も、子育ての際にものすごくいろんなことを感じてしまう人もいる。同じ環境であっても育てられる人とそうでない人がいる。人って多様なわけで、そのなかの面倒くさくない、一般的な、誰でも理解できるような部分だけを捉えて「当たり前」「常識」とするのでは......。子どもは母親だけのものではないし、子どもは力の無いお母さんの元に生まれたら、絶対にそこで育たなければいけないっていうわけでもない。

「お母さんが子どもを育てなくていい」~虐待防止の方法とは? - いつか朝日が昇るまで

 

 

anond.hatelabo.jp

 

 

 

www.sankei.com

こういう加害者の関係者への過剰取材にも批判のほうが多い。

1997年の少年連続殺人事件のときからすると隔世の感がある。

 

 

あと、はあちゅう氏のmetooに対して「おまえのことは気に入らないが今回のおまえの発言は支持する」という意見が主流だったりとか。

 

 

 

なんだか、もしかしたら、みんなちょっとずつ賢くなってる…?

完璧な善人も完璧な悪人も存在しなくて、追い詰められれば誰でも犯罪者になるというのが理解できる人が増えてきたっぽい??

たぶんこれって、多くの人が将来に不安を抱えていたりとか正社員になれなかったりリストラされたり、社会不安を共有するようになったからこそ自分と他人の弱い部分も認められるようになったというか認めざるをえなくなったのだと思う。バブルのイケイケのころだったら弱いやつは自己責任で切り捨てられていたはず。

 

てことは、現在の落日の国日本もわりと悪くないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

離人感とつきあってく方法とか考えてみた(けどやっぱよく分からない)

先方からの返事がくるまで何もすることがないという微妙な空白期間ができてしまったので、どうでもいいことを書いて暇つぶししようと思う。

 

ということで、私の離人感や解離と自閉症統合失調症の違いとかについての私感をだらだらと書いていきます。思いつきなのであんまりまじめに受け取らないでください。

 

 

 

離人感を説明してみた

私はちょっとわけのわからない家に生まれて軟禁とかいろいろされていたので、普通の人が物心つくまえに家族との交流によって身に着けているはずの感情というものを学習する機会を逸してしまいました。なので私にとっての普通の状態は世間一般で言われている離人症なんだろうと思います。そしておそらくこのことが私の解離性同一性障害の一翼を構成しているのでしょう。自分じゃよくわからないけど。

 

私は突発的な状況に応じてとっさに適切な感情を表出するのが下手です。相手の出方に自分の命運を握られてる感はとても苦手。すっごい疲れる。どういうテンションでいればいいんだ。。

突然の変更に対応できない、かつ、みんながあたりまえに読んでる空気を読むのが大変という意味では自閉症スペクトラムと似たような困難を感じているけど自閉症とはちょっと違って、別に対応ができないわけでも空気が読めないわけでもないんだよねー…ていう。

 

 

離人じゃない状態を想像してみた

私の場合、うっすらと好ましいとかできれば平穏に長生きしたいとかその程度の好悪はあるけど、それ以上のアグレッシブな愛憎みたいなのはちょっとよくわかんないんだと思う。私も一応激怒したり憎悪したりすることはあるけど、それは感情の表出を強制されたときのみ発生する。どっちかというと憎いというより、うぜーとかめんどくせー系統。

どうやら普通の人の感情というのは他人の気に入らない発言だとか好ましい振る舞いだとかいった些細な刺激に対して発生するらしい。いっこいっこ律儀に笑ったり怒ったりするのすごい大変そう。

 

たぶんなんだけど、私にとって感情は第二外国語のように意識して想起しないと思い浮かばないものだけど、普通の人にとって感情というのは母国語のように自我と不可分の存在になっているのではなかろうか。

リンゴを見る→リンゴという単語が頭に浮かぶ、くらいのレベルで、

あいつの言動が気に入らない→むかつく、みたいな…?

普通の人は目に見える情報すべてに感情が一体一対応で発生してるっぽい気がする。リンゴをみたら「リンゴ」と思うのをやめることができないように、彼らはむかつく人をみたらむかつく気持ちを止めることができないのかもしれない。

 

それがあたりまえだと思って生きていたら、離人感が病的な状態とされるのも理解できる。

 

離人症とは、自分が自分の心や体から離れていったり、また自分が自身の観察者になるような状態を感じること。

wiki

『自分が自分の心や体から離れていったり』て、そんなん私基準だったらあたりまえだしむしろ『自分が自分の心や体にくっついている』のがよっぽど気持ち悪い。知性が感情や感覚とリンクするとか、痴漢みある。

 

離人症の)被験者は自分が変化し、世界があいまいになり、現実感を喪失し、その意味合いを失ったと感じる。

wiki

 え…

むしろ確固たる現実とか世界の意味とかみんな普通に感じてんの。こわ。

ただまぁ、今知覚していることだけが唯一絶対の現実だという認識であれば、嫌でも現実に興味を持つだろうし激しい愛憎も湧くだろうなというのは想像できる。生きる意味とかも考えなくてはやっていけないかもしれない。

健全な精神をお持ちの方というのは現実という井戸に住む蛙なので、彼らの持つ愛憎というのはストックホルム症候群みたいなものなのだと思ってみると私にも少し理解できるかもしれない。逃げ場のない現実とかなんかめっちゃ大変そう。

 

 

 

解離と統合失調症の違い的な雑感

あとときどき思うのが、

『自分の行動を外から観察しているように感じること』を解離って呼ぶのなんか違くない?ということです。

なんだか、「自分の行動を外から観察している」というのが「好ましくない自分の行動を止めることができない」と混同される場合が多い気がする。「悪い人格が悪いことをしているのを、心の中に閉じ込められた良い人格が止めようとしている」みたいなのを解離っていうの違くないかな。それは普通に葛藤というのではないだろうか。そういうのが煮詰まると「聞こえないはずの声(実は自分の葛藤)が聞こえる」という統合失調症になるんじゃね。

 

葛藤の末に相反する意見が自分の中にある、というのを解離というのはすごく違和感がある。だってそれ、葛藤を解消する系の治療過程が必要じゃん。解離とアプローチ全然違うじゃん。リスパダールが効く系のやつじゃん。

個人的にはリスパダールわりと好きです。苦いけど。関係ないけど、あの苦さって単純に苦いんでしょうかそれとも脳内物質を抑制することで生じる味覚の鈍麻を苦いと認識するのでしょうか。人によっては副作用がやばいらしいけど私はそんなでもなかったし断薬も平気でした。リスパダールは脳の中の感情や思考を司る部分を鈍麻させるような気がします。ひたすらぐるぐる考えて脳が熱暴走を起こしているときに強制シャットダウンさせるみたいな感じがしました。

 

でも実際、「悪い人格が悪いことをしているのを、心の中に閉じ込められた良い人格が止めようとしている」みたいな、リスパダール効く系の人で解離って診断されている人が多いし解離へのアプローチもリスパダール的というか、葛藤をどう処理するかみたいなのが多いので私の解釈のほうが少数派なんだろうと思います。

たぶん、感情が母国語化してる人が圧倒的に多くて、感情が第二外国語化してる人は見えてないんだろうな。それに感情が第二外国語化してるってだけであれば別に困ることはないし。だからこそ

(解離が)障害を満たすのは重症の場合であり、つまり、著しく苦痛であったり社会的機能の障害の障害をもたらしている場合である。

wiki

なんだろうし。

てか、この分類がそもそも意味不明なのか。

個人の特性にすぎないはずの解離(感情の第二外国語化)がどのような要件を満たせば『著しく苦痛であったり社会的機能の障害の障害をもたらす』になるのかが全然検討されていない。一番大事なのはそこでしょうに。

 

解離の種類とか考えてみた

一つ目

たぶん解離が『著しく苦痛であったり社会的機能の障害の障害をもたらす』になる理由は二つあって、一つ目はさっき書いたリスパダール効く系の葛藤を併発している場合。

「心の中に置き去りにされた小さな子供が泣いていて、大人の人格がそれを守ってる」的な。泣いてる子供vs泣けない大人の葛藤を処理できないのはそれ解離じゃなくて普通に適応障害とかそういうのじゃね。おそらく世間や医療ではこのタイプを想定しているから人格統合しましょうみたいな話になるのだろう。この場合人格統合とは葛藤の解消と同義になってしまっている。だったらまぎらわしいから解離なんていう特殊な概念を使わずに素直に適応障害とか統合失調症とか言ってほしい。そっちのが治療方針も明確になるだろうに。

これあれだ、domsubタグで暴力的な凌SMを書いて検索汚染するのやめてみたいな話だ。医療はpixivよりゆるゆるだからなぁ。加持祈祷や呪詛の時代と変わらないレベル。

 

二つ目

で、もう一つの『著しく苦痛であったり社会的機能の障害の障害をもたらす』になる理由はあんまり注目されないんだけど、感情が第二外国語化している自分と感情が母国語化している他者との軋轢なのではないかと思う。感覚が普通とずれているという意味では発達障害の困難に近い。

 

感情が第二外国語化している場合、一人でいるときには何の困難もないです。むしろ余計な感情がなくてすごい楽。でも常に感情を要求される社会にさらされると、常に苦手な英語でマシンガントークしてるようなプレッシャーがあります。ちゃんと意図が伝わってるかな、相手の逆鱗に触れてないかなと常に他人の顔色を伺う必要があってすごい大変。

さらに第二外国語化が進行すると、記憶障害もでてきます。人間は興味のないものを覚えることができません。だから感情=人間関係への興味が欠落すると、自分は誰か、今自分は誰と何を話しているか、目の前の相手が誰なのか、なにもかも分からなくなります。短期記憶の中のエピソード記憶だけが障害されている状態とでもいえばいいでしょうか。

でもほかの記憶や知能は障害されていません。むしろ余計な外界からの情報がなく集中できるので普段より高い能力を発揮できたりします。

なので「ここはどこですか?」「あなたはだれですか?」なんていう質問にすら答えられない、なんなら体に力が入らず座った姿勢を保てなかったり、どっからどう見てもヤバい状態ですが、IQテストをすると普通に140くらいあったりします。

なので、解離(感情の第二外国語化)だとIQは通常または微増、統合失調症(強い葛藤)だとIQが低下という判定法はどうでしょう。わりとわかりやすい指標だと思うのですが。でもこれだと普段のIQが分からないと判定できないから現実的ではないかな。

 

で、解離で記憶障害まで出る状態になるとたとえば立食パーティのようなウェイの集まりに行くのが困難です。忖度で生きているウェイにとって他人の顔を覚えるというのは死活問題ですから。ほんとまじきつい。でもあいつらコネと根回しオンリーで生きてるしコネの外にいる人を平然と叩き潰すのでどうにかウェイコミュニケーションを身に着けたい。でも好きでもないぶっちゃけ嫌いな人たちに興味を持つとか無理。

どうすればいいんだ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

虐待した親を罰することで得をするのは誰か問題

私は基本的には厳罰化も死刑も反対ですし、なんなら加害者個人に罪を負わせる刑法という仕組み自体に疑問をもっていますけれども、厳罰化やバッシングに一定の意義があるというのも理解しています。

たとえば、見ず知らずの子供を誘拐して虐待した、とかであれば、厳罰化が歯止めになるかもしれない。いやよいやよも好きのうちとかいってレイプする犯罪者をバッシングすることで性犯罪を許さないという土壌を作ることもできるかもしれない。実際飲酒運転なんかは厳罰化によってだいぶ減ったそうですし。

 

でも親子間の虐待において厳罰化は完全に無意味だし、なんだったら親子間の虐待は無審査で無罪でもいいくらいだと思ってる。

 

親子間の虐待は親が子を手放すことができない現行システムが諸悪の根源です。親が「あ、むり」てなったらさくっと子供を捨てることを許容すれば虐待は発生しえない。だいたい子供時代に頼れるのが親だけってクソゲーすぎる。親元以外に気楽に頼れる場所がいくつもあればいいのに。

 

あと厳罰化しても肝心の子供は全然救われないよねっていう。

懲役何年とかなってもいつかは刑務所から出てくるわけで、そこでまた子供は親と関係を持たざるをえないのであれば、事態が悪化するだけじゃん。

多重人格は感情をどう扱うかという与太話

はじめに。この文章を書いている私は多重人格を自称しています。私の多重人格が一般に言われるところの解離性同一性障害なのかは私には分かりません。解離の第一人者に「おまえみたいなやつはじめてみたww」みたいなことを言われました。まぁなんというかそういう怪しいやつなので話半分で読んでください。

 

 

 

最近「タンスの角に足の小指をぶつけて超痛かった」的な話をナチュラルにできるようになりました。「虫刺されたかゆい」とか「味噌汁で舌を火傷した」とか。このブログでも「あいつら憎い」「まじ死ね」とかいう文章を書けるようになってきた。

 

でも、今この文章を書いている『私』は痛いとか憎いとかそういうのがあんまりよく分かっていません。必要であればタンスの角に足の小指をぶつけて大げさに痛がるそぶりができるけど、それはあくまで演技であって痛いそぶりを見せる意味がよく分からない。タンスの角にぶつけたことで足の小指の組織にどの程度の侵襲があったかというのは知覚できるけど、それと「いってぇぇ」とか言って涙目でうずくまるという行為がいまいち結びつかない。

 

痛いとかおなかすいたとか疲れたとかむかつくとかあいつまじ許さんとか、そういう感情は個人レベルでは邪魔でしかありません。よく「痛いということが分からなければ加減が分からないから大怪我して死ぬ」とか言われるけど、それは感情と知覚を混同しています。痛いという感情が分からなくてもどの程度の怪我をしたのかが分かる知覚があれば問題ないわけです。むしろ痛みによって行動が制限されたり、正常な判断ができなくなるリスクのが大きい。

 

だから私は情動は自分のためではなくて他人を納得させるための機構だという立場をとっています。

にこにこしている人は友好的、イライラしている人は攻撃的、だからイライラしてる人に近づかなければ安全、みたいなライフハックがあるからこそ我々は人ごみを平然と歩くことができます。通りすがりの人が何の前触れもなく殴りかかってくることはなくて、殴りかかるまえになんらかの威嚇や示威があるはず。野良犬だって突然噛みつくのではなくて唸ったり吠えたりします。

感情を表出しないということはこの社会の約束事を反故にすることなので、何の前触れも理由もなく襲ってくるゾンビのような恐怖を与えます。ヒッチコックの映画がなぜ怖いかというと鳥が襲ってくるのかが分からないからです。鳥が人を襲う理由があってそれに対処する映画であればただの害獣駆除であって恐怖映画にはなりえない。

 

大概の人は感情と知覚を区別できていないので、感情が完全に抜け落ちた人に対峙した経験を持つ人はそれほど多くないようです。だから感情が欠落した他者に感じる根源的な恐怖と狂気の存在もあまり知られていなくて、どう説明すれば伝わるかちょっとよく分からないのですが。

でもまじ怖いよあれ。私が言うのもなんだけど。なにするか予測つかないってめっちゃこわい。人食い鳥を駆除すればOKだぜ!みたいな明確なゴールがないからこの世のすべてを抹消するまで安心できないという底なし沼感がこわい。

 

なので、自分のためではなく他人のために感情を演じるようにしています。おかげで人間関係が円満になりました。めでたしめでたし。

でもこれは私としては一人で勝手に演劇をやってる状態なのできっつい。周りは普通なのに自分ひとりだけ歌って踊って宝塚ミュージカルやってるみたいな気分。正解が分からないから常に周りの顔色をうかがいながら常時ミュージカル。なにこれ普通に病む。

 

私という人格にもうちょっと感情が添加されればいいのかなとも思うけど、どうやれば感情って作れんのかわからない。それに感情に振り回されてる人たちを見てると、オートで感情が発動するというのも考え物だなぁという気もするし。ていうかそもそも私はめんどくさい感情をすべて切り捨てて合理のみで動けるからこそ私なんで、感情なんてあったら多分私は私じゃなくなる。

もう役者に徹するしかないかぁ。すごい馬鹿みたいだけど。なんかドンキホーテの気分。

 

 

 

ウェイの集団に行くと孤立してる的な気分になって無駄に疲れる

ウェイは馬鹿の巣窟なので悪徳業者としてはぜひともおもねりたい部分なんだけどウェイの集団に混ざるとすごい疲れる。

ていうと「わかる」て言われる。でも違うんだ私の傷つきとお前の傷つきは全然違うんだ!てなって余計疲れる。

 

私は自分の信念を曲げることとか相手を接待することとかは別に全然苦労だと思わない。宴会芸でもセクハラでも必要なら普通にやる。

馬鹿にされるとか見下されるとかも全然腹が立たない。私を馬鹿にすることで相手が平穏でいられるなら好きなだけ馬鹿にしてどうぞ。

そりゃ当然、私は世界で一番優秀で一番正しくて一番強いわけだけども、そんな私のすごさを理解できない哀れな子羊を憎もうとか思うほど心が狭いわけではない。ていうか私の世界では私が一番正しいのと同様に他人の世界では他人が一番正しくて両者の正義は両立する。別にどっちが正しいとかそんなの無意味で、私は私が一番正しいと思っているしそれは誰に何を言われようと揺らがない。

 

だから違うんだ私のプライドは天より高いけど別にプライド傷つくとかそういうのはないんだ…

思い通りにならないからむかつくとかそういうのもないんだ…

 

「馬鹿なウェイにはhedgehogxの優秀さが分からないんだよ気を落とさないで」とか言われてもな…ウェイが馬鹿なのは今に始まったことじゃないし。私の世界ではウェイは救いようのない馬鹿だけどウェイの世界で私は救いようのないキモオタだろうし。

 

 

私が何にこんなにぶーたれてるかというとおそらく、ウェイに敵意を持ってしまう自分と、その敵意を解消する手段をとれないことと、ウェイに敵意を逆転移して復讐におびえる自分なんだと思う。

ウェイはびっくりするほど内省しないから、詐病で病院行って治らないからドクターに怒鳴り散らすとか平然とやらかす。親学で親子関係を改善するカウンセラーとか言い出す。自分の問題を他者に逆転移して被害を拡大させていく彼らを私は憎む。最近の虐待の話で親や児相を責める言説もそう。自分の公正世界感を維持するために他人を平然と殴る現象を前にすると私は無力感と後悔に襲われる。

公正世界感にとらわれている人、あるいは公正世界感をメタ認知できる知能が無い人に対して私は圧倒的に無力だ。私は彼らの拳を止めることができない。彼らの拳を止めることが正しいことかどうかも分からない。「公正世界感に捕らわれている人」の中には私自身も含まれていて、私の正義感の犠牲にしてしまった他者にどう償えばいいのかも分からない。

だから私は内省しないウェイが憎い。

 

いやでも一応悪徳業者だからな。詐欺師の末席を汚すものなんだからウェイを手の平で転がすくらいやらないと。そしてサクセスして札束でウェイを殴り飛ばすんだ。がんばろ。。。