雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

自民党の右傾化は団塊の老害のための接待ではないか説

自民党改憲草案をみると、家族を大事にとか天皇が偉いとか政治活動の自由を制限するだとか結婚や移動や職業の自由を行使するには家長の許可がいるだとか、なんかとんでもないことが書かれている。

9条自体の改憲自体は十分慎重に国民全体が議論すべき事柄だと思うのだけど、それ以外の妙に帝国主義的な思想をねじこんで来るのなんでなの。森友事件あたりからやっと騒がれはじめたけど、自民党っていつからこんなナチみたいな気持ち悪い右思想の党になったんだっけ。ぜんぜん「自由な民が主権の党」じゃないじゃん。

 

共謀罪やら銃剣道やら教育勅語やら、どうにもうさんくさいニュースを総合するとどうも安部氏率いる現在の民主党国民主権を放棄して国の言いなりになる国民を育成したいっぽい流れになっている。

そのうえ家族の義務を増やすことによって介護や育児を家族の無償労働によってまかなおうとしてるくさい。

 

これらは明治維新からww2あたりに世界的に流行した思想で、なぜこのような思想が流行したかと言うと当時の戦争の形式が兵隊が植民地に行って殺し合いをするというタイプのものだったから、と考えることができる。

植民地という他人の土地で白兵戦に近い泥臭い殺し合いをする下級兵士を大量に量産するために列強はこぞってなにも考えず国のいいなりになる国民を量産した。そこで必要なのは敵を殺せる強い男と子を産む女だけ。男は戦い、女は子を育て、それ以外の活動はしなくていい。むしろ余計な活動をして知恵をつけられると面倒。戦争というのは儲かるから、当時はそれで十分経済が回ったのだろう。よく知らんけど。

 

そういう時代においては、家族間の扶養義務を強化する改憲草案とか国を愛する心を育てる道徳教育とか反戦思想を教える教師を密告する制度を作る*1とかが国の存続のために有効な手段足りえたのだろう。帝国主義はベストではなかった。だが少なくとも当時それがベターに近いなにものかであった瞬間はあったのだろう。

 

だけど、現在の自民党が推し進めようとしている帝国回顧主義は核や大陸横断ミサイルが実用化された現代において有効な戦略だろうか。

戦争の悲惨さや殺戮についての人道的な反対はいったん保留にするとしても、大統領がぽちっとスイッチを押せば敵国が吹き飛ぶこのご時勢に肉弾戦のための使い捨て下級兵士って邪魔なだけじゃね?いまさら植民地に行って銃の撃ち合いするメンタリティを育ててどうするよ。

 

家族の扶養の義務や結婚や職業選択の自由を制限するとかも、それって結局女性のシャドウワークを増やして社会進出を妨げてるだけじゃんね。ただでさえ人手不足で不景気なのにさらに女を家庭に閉じ込めたらさらに景気冷え込むよね。

 

女は家に閉じこもってろ、国家を崇拝しろってそれ言って喜ぶのって団塊の世代だけだよね。リアル戦争を知らないことに劣等感を持ち続けリアル戦争に無責任な憧れを抱いている世代。まぁ団塊の世代のオッサンたちが自民党の票田だからね。だけど票田のご機嫌取りのためにナショナリズム復活させるって失うもの多すぎないか。

 

てことで、自民党の右化はサライとかで弘兼憲史に漫画化させる程度の気楽な懐古主義でしかないっぽくて、そんな個人の好みを国に反映させるとかほんと団塊の世代は死ぬまで迷惑を撒き散らしていくのだなと思います。

*1:まじで自民党は2016年に密告メールフォームを作ってた。魚拓→http://archive.is/FysFM

星野源氏の人見知り発言を賞賛してる人は病んでる。

星野源氏が言っていた

星野源が持論 「人見知り」と伝えることは「気を使ってください」と言っていることと同じ

相手に「すっごい失礼」「何様なんだ」と感じるようになった

 という発言が私にとってはめちゃくちゃ不愉快だしこれは怒っていいと思うんだけどみんなわりと容認してて、どういうことなのかなと思ってみた。

 

togetter.com

星野氏の発言を容認する人は人見知りカミングアウトをする他人あるいは自分自身に対して常々苦々しい思いを抱いているからこそ彼の発言を支持している。それが自分に向かったものであれば「私も人見知りカミングアウトで相手に不愉快な気分にさせてるかも」になるし他人に向かったものであれば「あいつの人見知り発言で俺は不愉快になった」になるけど本質は同じ。

 

「私はこのような事情がある、だから配慮してくれ」と表明されることに嫌悪を感じまた自分が表明することを遠慮する精神状態はちょっとやばい。ていうか努力や我慢が普通になりすぎてやばい人多すぎ。もっと頼ったり頼られたり気楽に生きればいいじゃん。

 

 以前、ヨシケイの宅配サービスを頼む人は毎食きちんとした食事をしなければいけないという強迫観念に取り付かれているという記事を書いた。

hedgehogx.hatenablog.com

 まぁ宅配サービスに関しては超田舎でスーパーが無いとか怪我してて外出できないとかで普通に需要もあるんだろうけど、とくに理由が無いのに買い物いけないくらい忙しいならちゃんとした食事を作る必要ないじゃん。料理する時間がないならニンジン丸かじりとかしてればいいじゃん。おいしいよニンジン。

 

 

 

まぁ、この人見知り関連発言で星野氏が言いたいことはなんとなくわかる。

まず前提として、

  • 人見知りカミングアウトをすると「この人は人見知りだからあんまり話を振らないであげよう」という気配りをされる。

でも

  • 星野氏は「あんまり話を振らないであげよう」という気遣いを受けるのがどうにもしっくりこなかった。むしろ話をするのは大好きだ。

だから

  • 人見知りカミングアウトをせずにがんがん話を振られることを選択した

てことでしょ。自分にとってしっくりくる待遇を得るためにセルフプロデュースしましたよってことでしかない。星野氏にとって「人見知りカミングアウト」はしっくりこなかったというだけで「人見知りカミングアウト」自体を失礼だとか何様だとかディスるのどうなの。

私はたくあんが嫌いなんだけど、だったら「たくあん好きな人はすっごい失礼、何様かと」とか言っていいわけ?

 

 

 

 

自分を追い詰めるのが正義、みたいな体育会系マッチョな発想なのか何なのか、自分自身に向けた否定や暴力に鈍感になっている人が多い。他人は殴ってもいいけど自分は殴ってよし、むしろ自分を殴るのが美徳、みたいな。

でもたとえ自分自身に向けたものであっても否定的な言葉を使う人を私は信用しない。否定的な言葉を使うというのはつまり言葉の暴力であって、そりゃ他人を殴るのもいけないけど自分を殴る行為だって見せられたくないじゃない。公共の電波で自傷行為を見せられるのはやっぱ不愉快だ。

 

 

彼らはそうやって他人にも自分にも監視の目を光らせて疲弊し続ける。ああいやだ。

 

なんか、みんな真面目すぎ。

いーじゃんべつにコミュ力なくても。失礼でも。気遣いを強要しても。お互い様じゃんそんなの。どうせ人間なんて生きてるだけで多大な迷惑かけ続ける生き物なんだから、いまさら多少の迷惑なんて誤差の範囲じゃん。そこくよくよ気にして無理にコミュ充のふりして消耗して病気になるほうがよっぽど迷惑。だったらあちこちに迷惑かけまくりながら楽しく生きててくれたほうがまだ迷惑度が低い。

くらい気楽に生きたほうがよくね?

 

 

hedgehogx.hatenablog.com

 

星野源氏の「人見知りは失礼」発言は全ての人を追い詰める言説だと思う。

togetter.com

 

 

「あくまで自分の場合」と前置きをした上での発言だということを踏まえても

本当は人好きなのに、人見知りだって言っちゃうことは、相手に僕人見知りなんで、なんか気を使って下さいって言ってるのと一緒だなって。それってすごい失礼だなと思って、失礼だし、何様なんだって思ったんです

 

という発言はやっぱあんまり良くないし、それを賞賛してしまう人達も自分で自分の頚を絞めてるよということを言いたい。

 

だから、(人見知りカミングアウトをしないことで)嫌われてもいいやって段々思えるようになってきて

 

うーわーーー。なんてイヤな奴なの。こういう傲慢な人と友達になりたくない。

あんたが嫌われるのは別にいいけどね、人見知りです、って事前に言ってもらえれば人見知りだからなんだなって納得できたはずなのに、わけもわからず失礼な態度をとられてあんたのことを嫌わなければいけなかった相手の気持ちって考えたことある?

 

自分と他人の常識が違うということを理解してない幼稚な意見を賞賛すんのいいかげんやめたほうがいいと思う。

 

良くない理由1 ノーブレスオブリージュあるいはポリティカリーコレクト

いくらきちんと前置きしたって聞かない人は聞かない。

「星野っていう有名人が『人見知りカミングアウトは悪』って言ってた」なんていって関係ない他人を追い詰める馬鹿は必ずいる。だから発言力のある人は自分の発言に気を使わなくてはいけない。という視点でも、この発言はあんまり良くはない。

 

良くない理由2 強者におもねること

そもそも 人見知りカミングアウト=気を使え という発想が失礼。それこそ何様なんだと。

 

 

どんなに身近な相手でも、他人という存在は常に未知の生命体だ。

私と同じ中肉中背で黄色い肌と黒い髪で私と同じ全身ユニクロで私と同じ日本語を話していたとしても、私の常識が通用するとは限らない。もしかしたら相手はものすごい虐待家庭に生まれて今日も服の下はアザだらけかもしれない。実は難病ですごく苦しいのかもしれない。某国から命からがら亡命してきたのかもしれない。もしかしたらすっごいおなかが痛いかもしれないし徹夜明けで眠たいかもしれない。

私の想像を絶する事柄はいつだって私の隣に転がっている。

どんな星から来たのか分からない未知の生命体の、どこにあるか想像もつかない地雷や機雷や弾道ミサイルを常に想定しつつ慎重に相互理解してゆくのがコミュニケーションだ。

 

だから、「僕は人見知りです」という属性カミングアウトはとてもありがたい。

だって噛み合わない言葉や気まずい空気の原因が一つわかるわけだから。人見知りに限らず趣味や思想信条や性志向やなんかもカミングアウトしてもらえるとすごくありがたい。無駄に相手の地雷を踏まなくてすむし、相手の地雷を想像する手間も省ける。

 

 

人見知りカミングアウト=気遣いを強要 て発想が出てくるってことは、人見知りカミングアウトをしない人に対しては気を使わなくて良いという前提があるわけじゃん。人見知りじゃない人同士は気遣いを強要したりしてないという発想なわけじゃん。

なにその傲慢な発想。

カミングアウトしない相手には気を使わないということは、相手は自分と同じ価値観を持っているに違いないという前提の下話を進めているということで、それこそ相手にとってすごく失礼だし自分自身を否定することでもある。

 

カミングアウトといえばセクシャリティのカミングアウトも嫌がる人っているじゃん。そういうのとこの星野さんて人が言ってるのは同じことだと思う。

「私は同性愛者です」というカミングアウトをしない人は全員異性愛者だと思って下ネタを振る、ていう低脳なオッサンと星野さんの言ってることは同レベルだ。

低脳なオッサンは除外するとして、まっとうな感性を持ってるならさ、「もしかしたら相手は同性愛者かもしれない、Aセクシャルかもしれないしトランスかもしれない、敬虔なイスラム教徒や仏教徒かもしれない、あるいは性的なことを嫌っているかもしれない、etc」って常に想定して会話するでしょ。だから、カミングアウトってすごいありがたいじゃん。相手の地雷を踏む可能性が一つ減るわけだから。

 

 

人見知りカミングアウトを失礼だとか何様だとか言ってしまえるメンタリティは、人見知りの人を追い詰めるだけでなく、人見知りでない人も追い詰める誰も得しない弱者の叩き合いでしかない。

 

仕事ができない人の頭の中を配慮して差し上げるのがめんどい。

なんか、上司がすげー気ぃつかってやんなきゃ仕事できない奴っているじゃん。そういうのほんと迷惑だしそういう人は私の会社にはいらない。て、えり好みできる程度の超零細なんだけど最近そんな殿様経営もできなくなってて超めんどくさい。

細かく進捗確認するとかタスクを分解してあげるとかそういうのはまだいいんだけど、細かく進捗確認しないと仕事できないくせに細かく進捗確認するとご機嫌損ねるとか何様かと。なんで仕事の尻拭いしてやってるこっちがご機嫌とってやんなきゃいけないの。そういう人は刺身にタンポポ乗せるマックジョブ最低賃金もらって暮らせばいいのに。なんてことをこちらさんの記事を読みながら思った。

blog.tinect.jp

 

私がめんどいって思うのは、手間をかけてあげることじゃなくて相手のご機嫌を伺わなきゃいけないところなんだろなと思う。ご機嫌を伺って欲しいんだったらキャバクラにでもいけよこっちは仕事してんだ、って発想になる。

逆に、私が部下の立場だったら上司がどんなに理不尽でもご機嫌損ねたりはしなくて、だからこそ「私には普通にできることがなんでできないの」って発想になっちゃうんだろな。てことは私の怒られ耐性が強すぎるのが問題なのか。

 

なんかもう、子供の頃からすごい理不尽な事柄を沢山見てきたし、いい年した大人がプライド踏みにじられて這い蹲るのとかあたりまえだったからいまさら上司の嫌味の一つや二つかわいいもんなんだよね。だって上司は私を強姦しないし殴んないし。別にいいじゃん怒鳴られるくらい。みたいな。

ただ、私がその境地に至ったのは理不尽な経験を経てかつ幸運なことにそれを客観視できる余裕に恵まれたというとても珍しい状況に置かれたからであって万人に私の感性を要求しちゃいけないんだと思う。

乳幼児にハチミツとか予防接種とか、選択とリスクについての雑感

乳幼児にハチミツを与えて死んじゃった事件がちょっと話題になっていましたね。

 

いろいろ問題や改善点はあるだろうけど、そもそも乳幼児ってやつはハチミツ程度で死んじゃうような、ぽろぽろ生まれてきてぽろぽろ死んじゃう弱い生物なんだってことをもうちょっと自覚したほうがいいんじゃないかなって思った。

www.mamanity.net

魚、ごま、ソーセージ、はんぺん、ちくわ、水道水…

調理器具もスプーンも全部消毒して、食材はすりつぶして裏ごししてスプーン一杯しか与えちゃいけなくて、じゃあ子供に食べさせていいものってなんですかね。めんどいからいっそ点滴でも与えときゃいいんじゃないっすかね。

 

子供が死ぬのなんてすごくあたりまえのことで、10人生んで一人生き残ればラッキーくらいのもんじゃん。それを100%生きるのがあたりまえみたいな現代の子育ては難易度ナイトメアと化している。

 

私は私の子供にいくつかの予防接種を受けさせていない。

哺乳瓶の消毒もしなかったし離乳食だって口移しでやってた。

 

でも予防接種を受けさせるかどうか相談されたら、問答無用で全部受けとけって言うし哺乳瓶は消毒しとけってアドバイスしてる。だって普通の人って死んだり障害を負ったりすることに対する覚悟が全然ないじゃん。まさかうちの子が死ぬなんてありえないって思ってるじゃん。だったらなーんも考えずに医療と国の言うこと聞いといたほうが精神衛生上いいんじゃない?て思う。

 

予防接種を受けようが受けまいが、ハチミツを食べようが食べまいが死ぬときは死ぬ。子育てなんか博打でしかない。どうせ死ぬときは死ぬんだから、私達にできることはせいぜい死に方を選ぶ程度だ。

予防接種の副反応で死ぬのと、予防接種せずに死ぬのと、どちらのほうが納得いくか。あるいは国や世間様の指示を遵守したにも関わらず死ぬのと、自分の本能を信じた結果死ぬのと、どちらが納得いくか。結局そこで判断するしかないんだと思う。

 

あと、確率を持ち出す人もいるけど、疫学としてマクロで考えるときに確率論は有効だけど個人レベルにおいて確率は無意味だと私は思う。

マンボウみたいに数億匹子供を産んで数億回の試行をできるならともかく、私にとっての子供は私の子しかいないわけで、せいぜい数回の試行しかできない中で1000分の一と100000分の一の違いなんて意味無い。1000分の一と100000分の一の違いを実感するには少なくとも10000回くらいは試行しないとじゃん。1回とか2回の試行じゃどっちが1000分の一でどっちが100000分の一かなんてわかんないよ。別にどっちがどっちでも変わんない。

これがたとえば、予防接種しないと90%が死ぬけど、予防接種すると0.01%が死ぬ、とかくらい大きな差があれば個人レベルでも実感できると思うんだけど、小数点以下何桁みたいな範囲だと疫学専門のドクターとかレベルであれば実感できるけど個人じゃよくわかんないな、って自分で子供育ててみて思った。結局強い固体は何しても生き残るし弱い固体は何したって死ぬときは死ぬんだからもう天命だと思うしかない。

 

ただこの辺りの数字感覚って個人差がすごく大きいところだろうから、1000分の一と100000分の一の違いがすごく実感できるって人もいるだろうし私みたいに良くわかんないって人もいるだろうし、別にどっちでも自分にとって納得いく方法を選べばいいんじゃないかなと思ってる。いいじゃんべつに死に方くらい勝手に選べば。

「私の子は私の不合理な選択によって死んだor重い障害が残った」って恥じることなく言い切れる強さがあるなら、ハチミツも離乳食も好きにすればいい。ていうか私は好きにした。

ただまぁ私がその考えに至るまでにはかなり独創的な人生経験を経てきたわけでそれを一般化しちゃいけないなと思うので、病院大好きな人は病院に頼るといいんじゃないかと思います。

 

 

追記

こんなブログを判断の基準にする人はいないと思うけど、一応追記。

予防接種は他人への感染を防ぐという意味合いもある。その意味合いの有効性はどうにもキナくさいところもあるけれど、少なくとも予防接種推進派の人は「いついかなる場合にも予防接種は有効な手段である」と信じている。その中でうっかり日本脳炎やはしかの感染源になってしまったら「あいつが予防接種をしなかったせいで感染症が広まった」ということになる。無駄に他人の逆鱗に触れるのはお互いにとって不幸だ。

というわけで予防接種はしといたほうがいいんじゃないかなと思います。

人に愛される才能は生得的な要素があるという点について

さーて今日はババアの中の中学二年生が大暴れするよ!

いくよーーー

せーの!

 

 

私は人に愛される星の元生まれてきた。

 

うわ。

自分で言っといてなんだけど

 こwれwはwひwどwいw

 

じゃあもういっちょ。

 

愛することよりも愛されることを享受すること

支配されるよりも支配することを選ぶこと

それは悲しく寂しいことだけど、仕方がない。私はそういうカタチなのだから

 

わぁぁぁぁ。

さぶいぼさぶいぼがすごいことに。てかじんましん出そうwww

 

 

でもまぁ、ただでさえ不利な手持ちカードを持って生まれてきてしまったんだからせっかくの有利なカードはきっちり自覚してばっちり使いたいじゃん。キャリアの棚卸し的な。

 

なんか、自分の小さい頃の写真をみるともう天性のタラシって感じ。すっっっげぇかわいいの。自分で言うと馬鹿みたいだけどwロリータ的な美しさとかじゃなくて、「こいつは私が守らねば」という仔猫的なアフォーダンスに満ち溢れてる感というか、母性本能を直撃するフェロモンだばだば出してる。よく知らない人にお菓子貰ったりしてた。

ていうか歩いてたら知らないおじさんおばさんに煎餅とか最中とか昆布飴とか貰うもんだし、どんなに強面のヤクザみたいな人でもすれ違いさまに「めんこいのぅ~v」ってすごいデレ顔で言うもんだと思ってた。傘をささずに雨の中歩いていたら知らない人に傘を貰うから傘立ては知らない人に貰った傘でいっぱいだし、街中できょろきょろしてたら「どうしたの、迷子?」って聞かれるの普通だし、知らない人に道聞いたら「本当は車で行ったほうが近いけど、誘拐だと思われたら悪いから」とか言ってわざわざ車を止めて一緒に歩いてついてきてくれるのがあたりまえ。

 

さすがに大人になってからは仔猫フェロモンダダ漏れではなくなった(と思いたい)けど、やっぱりこの無自覚フェロモンに助けられてることはすごく多いんだろうと思う。いまだにたまにお菓子貰うし、道聞いたら高確率で目的地まで一緒についてきてくれるもん。仕事で対立してる人でも一度対面で話すると高確率で味方になるし。なんだろ、前世でよっぽど徳でも積んだんか。だとしても今生で徳の無駄遣いしすぎじゃなかろうか。

 

 

逆に、憎たらしいフェロモン出してるタイプの人っていうのもいて、特に何もしてないのに表情とか動作とか返事とかがなんか憎たらしい感じで、そういう人ってすごく損してんなって思う。

 

 あと危ない系フェロモン出してるタイプの人っていうのもいて、そういう人は道を聞いたら誘拐されかけるのがあたりまえ、歩いてたらストーカーに狙われるのがあたりまえ、らしい。怖ぇぇ…

 

感覚が鈍いのに感覚過敏という矛盾がずっと疑問だった。

たぶん私はASDADHD的な傾向があるんだけど、あと統合失調症や解離の傾向もあるんだけど、じゃあ私は発達障害精神障害かといわれるとなんかちょっとすごく違和感がある。て言うと、障害者になりたくないとか認めたくないとかそいう障害の否認みたいなことだと思われるんだけど、それもまた違うなぁとなんかすごくモヤモヤしてた。

 

自分と他人が違うということは別にいい。世の中にはいろんな性質の人がいて、その中で私はこういう性質を持っているというそれだけのことにこだわる気はない。

自分が他人より劣ってることも別にいい。むしろ自分より有能な人がいっぱいいて私の代わりに社会を回してくれてるんだから楽できていいじゃん。

私を馬鹿にする人がいることなんて心底どうでもいい。私を見下すことで精神の安定を得られるならよかったねと思う。まぁ実害出るほど邪魔されたら即効排除するけど別にそれだけ。

 

だから別に発達障害だとか精神障害だとか言われること自体には嫌悪感とかそういうのは全然ない。ふーん、現代医療はそういう分類をするフレンズなんだね、くらいにしか思わない。

 

なんだけど、発達障害精神障害の知識が増えて当事者の知り合いも増えるにつけ、このカテゴリに所属することへの違和感が強くなってきた。彼等と私は似ているところもあるけどやっぱなんか違う。

 

なんなんだこの違和感、て思ってたんだけど、たぶんこれASDADHDとその他いろいろでそれぞれに別の違和感があるっぽい。

 

ASDっぽさに関しては、なんかわりと分かるっていうか。空気読めないし読まないし、なんの努力もなしにハイコンテクストに溶け込める人種は化け物に見える。でもハイコンテクストな化け物の存在を認識して分析することができる程度の知能はある。なんなら彼らにコンテクストを与えて支配することもできる。そういう意味で私は高機能な自閉なんだろう。

ADHDに関しては、多動=内から溢れ出るパッションが多すぎる、みたいな部分に関してはちょっとよくわかんない。体力なくてすぐ寝込むもやしだから、パッションに関してはむしろ少なすぎて困ってる。多動=ほんとは疲れきってるのにスイッチが切れない衝動コントロールの下手さ、みたいな部分に関しては、ちょっとだけ分かる。でもものすごく下手ってわけではないのでそんなにわかんない。

 

で、あとは感覚過敏の類で、これに関してはすごく分かる気もするんだけど全然わかんない気もしてて自分でもどういうことかよく分かってなかったんだけど、多分私の感覚はかなり敏感なんだろうと思う。普通の人には聞こえな音も聞こえるし感じられないものも感じられる。なんだけどきっちりカクテルパーティ効果は作用してるからそんなに困んない。感覚受容器からの情報を脳が処理できないのが感覚過敏で、感覚受容器からの情報がどれだけ多くてもその情報を脳がきっちり処理できるのであれば感覚過敏ではない。

逆に感覚受容器からの情報が少なくても脳の処理要領を超えていれば感覚過敏になるんだろう。

この、感覚が鈍いくせに感覚過敏、というのが私にとって意味不明ですごいイライラしてた。同属嫌悪。だって決まった味しか食べれないとか言うくせにぐっちゃぐっちゃのジャンクを平気で口に入れるとか、信じらんない。私の中の常識では、決まった味しか食べられない→味に敏感→じゃあいろんな味の鑑別がつくんだよね、なわけで、でもたぶんそうじゃなくて、決まった味しか食べられない→味覚情報を脳が処理できない→他の味の鑑別はつかない、なんだろうな。むしろ味の鑑別がつかないほど脳のメモリが少ないからこそ味に固執するんだろう。なんか想像するのがむずかしいんだけど、たぶんそういう仕組みで感覚過敏というのは定義されている。

 

 

それから普段どんな環境にいるかという外部要因も大きい。今私は防音のしっかりした自分のパーソナルスペースでごく限られた相性の良い人と自分にとって無理のない範囲で関係を持つ仕事をしているから、不快な感覚刺激はかなり少ない。パチンコ屋みたいなすごくうるさくてタバコくさくてまぶしい場所で仕事をしていたら間違いなく感覚過敏だっただろう。

 

 

あと解離様症状と統合失調様症状に関してもなんかいろいろあるけどそれはまた気が向いたら書く。