雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

ロールシャッハやバウムテストやロールシャッハや夢診断がいいかげんすぎると思う件

前回の記事で夢診断モドキ的なことを書いててちょっと思ったんだけど、心理検査ってぶっちゃけぜんぜん意味なくね?という気がしてならない。素人目線だと、いまだに現場で使ってるとか大丈夫なんかなって思う。

 

だって、最低限視力と色覚はチェックしとかないとテストの根底から意味なくない? 

画用紙全体を真っ赤に塗りつぶしたとしても、精神がどうこう以前に赤と緑の区別がついてないのかもしれないじゃん。色盲までいかなくても色覚刺激に鈍ければ鋭利な色使いを好むだろうし。あと乱視だと見えるものが全然変わってくるから、同じTATの絵でも全然違うところに注目したりとかよくある。

 

 

意味ないっていうか、あまりに内輪ウケすぎて験者の想定外の発想を取りこぼすと思う。ていうか私はだいたい毎回取りこぼされてとんでもない誤解されてめっちゃめんどい。

 

たぶん最近見る夢だって精神科医にめっちゃ誤解されんだろうな…

 


私の夢に私の兄という役割の誰かが出てきて、それを私は私の別人格あるいは深層心理の表れだと判じたわけなのだけど、姉でも妹でもなく兄という役割の登場を医療者はきっととてもステレオタイプに判断するのだろう。

兄、すなわち年長の男性、強くて頼りになる人、保護人格、みたいな感じかな。

兄が銃を乱射しているというのは、強くて頼りになる人格がほかの人格を保護するために銃という強力な武器を手にして暴力的な行動に出ている、みたいに思われるのかな。

 

だけど私にとって男というのは肉体的にも精神的にも脆くて弱くてすぐ死ぬような存在で、身内の年上の男性なんてのはこの世で一番頼りにならない立場だと思ってる。そして私にとって銃というのはどこか遠い世界のファンタジックな物にすぎない。

つまり、「兄が銃を乱射している」という夢は私流に解釈すれば「本来保護されるべき人格がオモチャを振り回してかんしゃくをおこしている」というわりとアットホームなものになる。

私にとって最強ポジションは姉で、最凶ポジションは妹なので、「強くて頼りになる人格が強力な武器を手にして暴力的な行動に出ている」という夢であれば「姉が出刃包丁でどてっぱらに風穴を開ける」あるいは「妹がメリケンサック装備でたこ殴り」とかになると思う。実際そんな感じの夢をたまに見る。

 

 

 

 

大昔、大学でバウムテストをやったときに都会の子はひょろっちい幹を描き、植木屋の息子は根を詳細に描き、酪農家の娘は動物を描いててすごい微妙な空気になった。

植木屋の息子は毎日根と格闘しててほんともう木の根っこのことばかり考えてるわけだけど、それでも都会育ちで鉢植えすら育てたことのない子は根を描かなかったから情緒不安定で、植木屋の息子は根を描いたから情緒が安定してるわけ?

 

それにたとえば、木どころか草も生えない砂漠にすんでる人とか、全部凍ってしまう南極に住んでる人とかだとまたぜんぜん違う木を描くと思うんだけどその場合でも小さい木は自信のなさを表しているとか適応されんのかとか。

もっと言えば絵や字を書いたことのない民族とかの場合でも筆圧が低いから自己肯定感も低いとか言えんのかとか。

 

 

そのあたりほんとどう判断してんの。

ハワイに住んでて身近にパッションフルーツが普通に生えてるけど針葉樹なんてみたことない、みたいな人でもパパイヤを描いたから孤立してるわけ?

日本人の場合、蛇は瑞兆なんだけどそれでも夢に蛇が出てきたら誘惑と邪悪の象徴になるわけ?

みたいな。

 

あとロールシャッハもな。あれちゃんと主意説明しないじゃん。てか下手に説明して先入観を与えないようにってことなんだろうけど。私の友人で「どっからどうみてもただのインクの染みにしかみえない。ということですべて化け物に見えると回答しておいた。だってお化けならどんな形でもありえるから」という猛者がいたんだけど、あれどう判断されたんだろう。対話形式ならまだしもマークシートだったらしいんでたぶん思いっきり誤解されたんじゃないの。

それに仮にロールシャッハでちんこに見えたとして、その場に女性がいたら素直にちんこって言うかな、とか。私ならたぶん言わない。

 

ていうか今ネットでTATモドキができるサイトを開いてみたらいきなり性別聞かれたんだけどwwすごいな、最初から先入観で判断する気を隠そうともしない。患者のことなんかこれっぽっちも考えてなくて、医療者と健常者の求める患者像を得るためだけのテストなんだろな。いやこれはネットのなんちゃって心理テストだからかもしれないけど。

 

 

 

昨日みた夢の話という超絶どうでもいい話題

思った以上にキチガイじみた文章になりました。あと中二感が半端ない。

今回は読む人のことをあまり考えずに書いたので、たぶん普通の人には意味不明だと思います。

 

私のみる夢が年々進化しててこれ夢分析とかしたらどういう結果になるんだろなとふと思ったので、他人のみた夢の話なんていうのはつまんない話選手権堂々一位だと思うけどまぁいいや。書いちゃう。

 

たしか一番初めは崖から落ちて死ぬ夢ばかりだった。あ、やべこれ死ぬ、と思った瞬間に地面に叩きつけられて死ぬ、みたいな死の間際の数秒間をエンドレスリピート再生するというやたらに疲れる夢。

それから死に方がやたらにリアルでグロい感じになんて、じっくりじわじわ苦しみながら死ぬ夢に進化した。まだ死んだことはないはずなのになんでこんなにリアルに死ねるんだろうと不思議に思うくらいバリエーション豊かで妙にリアルな死に方で、たぶん当時医学知識なんてなかったはずだし今みたいにネットでグロ画像みれるわけじゃなかったのに、なんであんなにリアルな死に様をいっぱい知ってたんだか疑問。前世の記憶かなww

それらは全部他殺の夢で、だけど加害者は出てこなくてひたすら自分がどのように死んでいくのかに焦点があてられていた。あと、当時から死や苦痛への恐怖や憎悪が完全に欠落してるところはほんとぶれないな。

 

その後実家を出て経済的にも自立したころ、自動車事故の夢を見るようになった。

はじめは私は暴走バスの乗客で、このままバスが暴走を続ければ大事故を起こして死ぬのは確定なんだけどなにもできないという夢。その後自分で車を運転している夢に変化したけどやっぱり車のブレーキが壊れていて止まれない。でも妙に冷静で、どっか丈夫な壁に車を激突させて大破させて止まるしかないな、でも他人を巻き込まないようにあと電信柱にぶつかると賠償金がえげつなくなるからなるべく避けて、とか考えてる。

それからこのころから夢の中で、いったん安全を確保して現状についてじっくり考えたいという欲求が出てきた。なんでブレーキが壊れてしまったのかとか、なんで殺されるに至ったのかとか、そういう前後関係をちゃんと考えて現状を見直さなければいけないのではないか、だけど追い詰められてる現状では余裕がなくて考えられない、あーうざい!とりあえずみんないっぺん死ね!みたいなやけくそ感。

たぶんこの頃は、どうやら私はそれなりに長生きしそうだということに軽く絶望してた頃で、長生きするんだったら目の前の現実をやりすごすだけでなくて今後のことも考えなくてはいけないということがちょっとめんどくさかったのだと思う。ブレーキの壊れた暴走車で爆走していいのはせいぜい二十歳までで、その後は勢いだけじゃどうにもならないということがだんだんわかってきた頃。わぁ青い。

 

そして次は刑務所に入る夢。

刑務所の独房だったら私的にパラダイスだけどそっちじゃなくて雑居房で労役もあるので軽く地獄。閉鎖空間で自殺も自傷も許されず共同生活とかほんと地獄。ものすごい絶望感。

それから刑務所の夢のバリエーションとして、知り合いが刑務所に入るというのが出てきた。たぶんこれが私の夢に他人が出てきた一番初めだと思う。というより、夢に限らず『私』が他者を認識した一番初めな気がする。

今文章を書いている『私』というのは全体としての私の一部分で、『私たち』は記憶も感情も知性も分割しているから一人格としての『私』の視野は病的なレベルで狭い。『私』はいつでも一人で暗闇の中にいて、世界が分割される前の原始的な世界観の中で生きていたから。自我は自他の分割から始まる。

 

…なんか、あらためて言葉にすると中二感がものすごいな!なんだこれどこのラノベだ。

 

気を取り直して。

たぶん、私以外の受刑者=他人 で、刑務所に入る知り合い=私の別人格 という感じだったのだろうと思う。この時期はちょうど就職していっちょまえに社畜やろうとしてたころなので、ここでいっぺんに他人と別人格という二つの他者に出会って、だけどそんな複雑な世界で他人のルールに沿って監視されながら生きなくてはいけないという重圧にかなりげんなりしていたのだろう。

 

 

そして今、拳銃を乱発する犯罪者の脅威にさらされている一般市民になる夢を見る。

自分しかいない世界から引きずり出されて自己と他者を発見し、紆余曲折の末やっと客体に徹することができるようになった。夢の中で主人公を演じている犯罪者が誰で、私はどうすればいいのかも薄々分かっている。次にみる夢が何なのかもだいたい分かる。

夢の中で犯罪者は私の兄、ということになっていて、これはおそらく保護人格なのだろう。そんでたぶん保護人格であると同時に主人格かそれに近い人格。あるいは子供人格というやつかもしれない。もっとも表層で矢面に立つ人格ともっとも中枢で育まれるべき人格が同一である、ということが私の病理であり特性なのだということが最近だんだん分かってきた。たぶん一般的には保護人格と主人格を分割するために生じるのが解離なんだろうけど、私の場合そこだけは意地でも解離させない。なんだろ、常に前線に立つ指揮官みたいな。そんなの能率悪いだけなのに。

 

たぶん次に私は『私』を維持したまま『兄』の経験を追体験する夢を見るのだろう。

うわ、やだなぁ。きっとめっちゃグロい。あとエグい。めんどくさい。

 

 

長々と2000字以上つまんないこと書いてきて思ったんだけど、これ私緩やかに統合の道を進んでるんじゃね?あれ私すごくね?

 

 

つづき。夢分析的なことをやってみた

hedgehogx.hatenablog.com

 

解離性同一性障害(多重人格)とは何かとか、そういう話

なんとも香ばしい増田文学をみつけたのでちょっと書いてみる。

前提条件として、この文章を書いている私は解離性同一性障害、いわゆる多重人格の当事者です。たぶん。よく知らんけど。

最近はそもそも多重人格自体が医原病であり詐病であるという説もありますが、私としては解離性同一性障害というのはパーソナリティの在り方のひとつ、あるいは知性のあり方のひとつとして捉えています。ただし、そもそも私自体がかなり特異な性格と知能を持つため、私の事例を一般化することは難しいと思います。実際私以外の解離性同一性障害の人と話をしても共感できる部分は少ないです。

というわけで、あくまで私という精神科医に二度見されることでお馴染みの、かなり変わった一症例の個人的な感覚を書きたいと思います。

 

 

元記事はこちら。

多重人格の彼女と付き合っていろいろ大変だった増田さんのお話。

anond.hatelabo.jp

 

増田にお返事している人が、増田の彼女は詐病だったのではないかという説を猛プッシュしてるみたいだけど、よく考えると彼女が解離性同一性障害だったかどうかっていうのは枝葉の話じゃね?

そして当事者としては、ISHさんが統合を提案するのも別に不自然じゃないなぁと思う。増田の文章から察するに、たぶんこのISHさんはそんなに高度な思考をしてないだろうし彼女さん自身の境界性人格障害っぷりを鑑みるに各人格同士できちんと尊重できるような関係を築けてはいないのではないかなと思った。ISHさんが、おせっかいな近所のオバチャン程度の認識しかないとしたら気楽に統合を提案することだってあるかもしれない。(そしておそらくその場合の統合は表面上に留まる一時的なものになりそうだけど、それはまた別の話。)

 

 

ていうかそもそも精神科の病名なんてエビデンス皆無の中世並みなんだからこだわるだけ時間の無駄。なんか、みんな『欝』だの『統合失調症』だの『多重人格』だの『人格障害』だのというあいまいでいいかげんな病名モドキと『コレラ』とか『リウマチ』だとかの厳密な定義のある病名を混同してる感が半端ない。

コレラにはコレラ菌があるけど、多重人格ウイルスなんてのは存在しないし、血中多重人格濃度なんてものもなくて、CTやMRIをとってもわかんないのが精神病と言われている状態。精神科の病名なんてぶっちゃけ『狐憑き』だとか『疳の虫』だとかと同じレベル。どうして薬が効くかもわかってないのが医学の現状です。

 

ということで、ここで問題になるのは彼女が嘘をついていたかどうかではなくて、ただ増田が疲弊して、彼女も疲弊したという関係性がそこにあったという点のみが問題です。

たぶんこれどっちもつらかったのだと思うのです。

善悪で考えれば一方的に浮気して暴力振るう彼女のほうが悪いだろうけど、懲罰思考をいったんおいて見たときに、二人の関係がどちらも疲弊するものになってしまったという悲しみがこの問題の本質ではないかと。

 

そして増田さんはきっととても愛情深い人なのでしょう。

他人は気軽に共依存だとかメンヘラだとかいいますけども、ただ相手の幸せを祈ることができる稀有な人というのは存在していて、その気持ちは誰にも否定できないものです。ストックホルムだろうとつり橋効果だろうと、そこに心動かされる何かがあったということは誰にも否定できないし、なんだったら尊いことだと言ってもいいくらい人として大切な真理だと私は思います。だけど精神分析が医療の傘下に入るにあたり病理というフレームを踏襲し、人の心理の尊さというのを尊重する姿勢というのが昨今のカウンセリングには欠けているような気がしてなりません。

 

まぁなんというか、増田さんはご愁傷様でした。この経験を人生の中にどのように位置づけるかは増田さん自身がゆっくりと決めてください。

一人の人を全力で愛したと思うもよし、ひどい女にだまされたと思うもよし、理不尽な暴力を振るわれたと思うもよし。どれか一つに決める必要もないし、途中で変えたっていい。ただ、今はちょっと疲れているでしょうから、まずはゆっくり休むことに専念したらいいのではないかなと老婆心ながら思います。

 

 

ということでだらだらと文章を書いてて、やっぱ私は増田を読んで解離云々よりもDVであったりPTSDであったりの部分が気になったんだなということがわかった。

解離とか関係なく、二者の関係性というのはなかなか難しくてそこが人生の醍醐味でもあるんだろうけどあんまり大火傷しないくらい留めておいたほうが楽しく生きれそう。

 

それと改めて、解離性同一性障害だとか精神疾患だとかはまったく理解されていないんだなと思ったので気が向いたらそのあたりも書いていきたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

布ナプキンを使うと子宮が温まるという説を信じてしまいそうな現象について

あったまるそうです、子宮。子宮筋腫とか治ったりするそうです。

布ナプキンで。

まじかよなにそれwwちょっとどういうことだかぜんぜん意味がわかんないんだけど、そもそも子宮の温度ってどうやって測んの。子宮の温度と病気の関係とかそんな論文みたことないんだけど私が知らないだけ?

それとか、やたら温めるとガンが治るとか。だから真夏でもホッカイロ貼って汗だくになんなきゃいけないとか。火傷したらもっと大きな火傷をすると治りが早いとか。

 

彼らは私とは違う物理法則の働いている並行世界の住民なのかな?

と、思うんだけど、でもなんかちょっと彼らの言い分もわかるなと思う自分がいる。

 

肌というか触覚からの感覚入力に敏感でかつ木綿や絹の触感に快刺激が発生するタイプの人だと、高分子吸水ポリマーってほんと不快。たとえるなら黒板に爪たてて、きぃぃぃ!と鳴らす音くらい不快を常に感じる。だから布ナプキンの安心感って半端なくて、副交感神経優位になるから体内温度も向上して結果的に子宮が温まることもありそう。

まぁ布ナプキンは快感と引き換えに感染症の可能性を助長してるわけなんだけども。でもまぁ清潔な水で布ナプキンを洗える設備がそろっていて、かつそんな免疫力落ちてる状態でなければそんなに重大なことにはならなそうだし、むしろ布ナプキンごときで感染症になるんだったら布ナプキン以前に栄養状態とかいろいろ対策とったほうがいい。

 

やたら温める系の宗教も、なんかちょっとわかる。

メンタルやられてるときってなんでか知らないけどめっちゃくっちゃ寒く感じて、真夏でもとにかく寒い。私もよくゆたんぽやホッカイロで温めすぎて低温火傷になる。でも無駄に温めることで、体は寒くなくても心の寒さをケアする心意気みたいなのを発揮することがメンタルケアの第一歩みたいなところもあるのかなと思ってる。

 

火傷したらさらに大きな火傷をすれば痛くない、てのもね、ゲートコントロールだと思えばその瞬間に関してはわりと合理的。それか3度の熱傷を負っちゃって痛覚まで焼ききれば痛くない。でもそうすると皮膚が再生する過程で人間やめたくなるレベルでめっちゃくっちゃ痛いからやめといたほうがいいと思う。

それから火傷に関しては、最初期(0から数分以内)の冷却期を過ぎたらあとはむしろちょっと温めたほうが治りが早い。とはいえそれはぬるま湯くらいの温め方であって間違ってもさらに火傷させるなんて方法ではないけど。

 

 

 

 

結局、なんで似非医学に心引かれるかって、医学ってぶっちゃけ科学じゃないからなんだろうなと思う。なんだっけ、再現性とかそういう自然科学の基本のやつ。あれ医学はぜんぜん守れてなくて、論文見ると眩暈がしてくるくらいプリミティブな統計をやってる。人体実験ができない以上しょうがないんだけど。

目覚しい功績を上げている分野もあってわれわれは医学の恩恵にあずかっているわけだけど、だからといって無駄に万能ぶるから胡散臭さが加速してる。

ほんとにぶっちゃけると医学は病気の原因をぜんぜん突き詰めてなくて、似非医学と医学はどっちもどっちというくらいうさんくさい。それから現代医学はすごく儲かるから利権が絡みまくってて金の亡者もわさわさのさばっててやっぱりうさんくさい。その上医学絶対主義者が医学をごり押しするからうさんくささ倍増。さらに医学反対主義者が対立を煽ってもうわけわかんないことになってる。

 

 

なんかなんというかうまくいえないんだけど、ほんとは患者さんは治ることなんて求めていないんだと思う。痛みが取れるとか仕事に復帰できるとか実はどうでもよくて、もっとなにかふわっとした自己実現とか自分探し的なものを求めてる。でもそのことを患者さん本人も自覚してなくて、だからただのサービス業でしかない医者を「お医者様」とあがめてみたり治らないことに八つ当たりしてみたりする。

そのあたりもうちょっとじっくり考えていきたい。

 

 

暴力と体罰と私の中にある、超強力な生存者バイアスについて

体罰を肯定するのはクズによるクズのための生存者バイアスにすぎない、と前回書いてて思ったのだけどそんなこと言ってる私自身も精神科医が引くほどの強力な生存者バイアスを持ってる。

 

暴力を受けたことを合理化するために「暴力によってよりよい大人になれた」みたいな方向性に行くと暴力礼賛のクソになるわけだけど、私の場合は「暴力は絶対悪で誰も救わない」という大前提を保持した上で「だが暴力が発生してしまうどうしようもない状況というものは存在する」という思考の流れになっている。

まぁねぇ。

人間、追い詰められたら誰だって攻撃的になるよねぇ。

有史以来、他人のために自分をささげられた人なんてせいぜいキリストくらいしかいないわけで、だからこそキリストの伝説が2000年も語り継がれてるわけで、ガンジーだってマザーテレサだって極限まで飢えたら人を殺すんじゃないかなたぶん。

 

「どんな高潔な人でも状況によっては必ず鬼になる」という生存者バイアスを私は保持しているのだということを意識して自分のされてきたことを振り返ると、気持ち悪いくらい理路整然と過去を意味づけていることに気づいて、人間の認知バイアスすごいなぁと思った。

 

私は「暴力」は受けたけれど、「体罰」は受けたことがない。

「お前が悪いから罰として殴っているんだ」みたいな責任転嫁は一度もされたことない。

加害者たちは、殴ってしまうことに、犯してしまうことにすごく傷ついていて被害者である私も傷ついていることをとても悲しんでいて、それでも自分を止めることができなかったというのは彼らの一生の傷になっただろう。私は彼らを生きている間に許すことができなかったことを悔やんでいる。だけど彼らはたとえ私が許したからといって、いや許したらなおさら罪悪感に苛まされつづけただろう。

 

みたいな。

まぁ昔のことだし、私の記憶はかなり破損してるわけだし、なんだったら暴行を受けたという記憶自体が偽りの記憶という可能性だってあるわけで(傷跡残ってるけども。。)実際加害者がどう思ってたかなんてわかんないわけで。

だけどなんか、実際はどうかわからないわけだけど私の心の中では、私を殴った人も犯した人もめちゃくちゃ苦悩してたってことになってる。

 

もうそれは私にとって当たり前すぎる大前提で、だから今回「体罰は子供への愛の鞭だ」みたいな言説をみてすごくのけぞった。そんな前提がこの世に存在すること自体が信じられなくて、ものすごく否定したくなって、自分がビンタされたわけでもないのに松本某とかいうクズを殴りにいきたくなるくらい腹が立ったのはたぶん私自身の生存者バイアスが脅かされたからなのだろう。

 

いやでもさぁ、ちっちゃい子ってふにゃふにゃふにふにじゃん。あれはモフって愛でるものであって叩くとかありえない。腕時計が吹き飛ぶような殴り合いの喧嘩はぜんぜんありだけど体罰はほんと信じられない。

中学生や高校生のごつごつしてかわいげのない年頃でも、やっぱ子供は子供だからだめ。ていうか年下に手を上げるとかダメ絶対。

 

 

 

私は暴力を受けてたけど、体罰を肯定する気には到底なれない

中学生にビンタしたオッサンを擁護する人が多くてすごく驚いてる。

え、なにそれきもちわるいんだけど。

現代日本って気に食わないやつは片っ端から張り倒していいわけ?ここ北斗の拳の世界だったっけ??

 

そんで体罰擁護派の言い分をみてみたら、これただの生存者バイアスじゃん。

www.kansou-blog.jp

体罰受けて育った僕たちは失敗作みたいなことを言われてるような気がしてどうも納得いかないんですよね

いやまごうかたなき失敗作だろ…

体罰でなきゃ学習できないとか犬以下じゃん。

体罰を受けて育った僕らはなんか変な大人になってないじゃないですか、屈折してたり、なんなら普通の若者よりも常識があるわけじゃないですか

十分に『屈折した変な大人』になってんじゃん…

自分が殴られてきたことを肯定するために他人が殴られることを推奨するってどんだけ迷惑なの。いい年した大人がやることじゃないよみっともない。ほんと常識がなくて屈折した変な大人だよこいつ。

 

 

なんなんだこの気持ち悪い空気。

 

まず、暴力は劇薬、みたいなことを言うのがすごく納得いかない。

私としては暴力が有効だった場面をまったく知らない。殴られても誰もいうことなんて聞かないじゃん。反抗されるだけじゃん。私自身もめちゃくちゃ反抗したしめっちゃ復讐したし、そういうもんじゃないの?すごく非能率的だと思うんだけど。

そんなものすごく非能率的な手段を能率的だと思ってしまうって、いったいどんだけ指導が下手なの。

 

 

 

昔犬を飼っていたんだけど、そんでまたそいつが人間で言うところのADHDで小型犬のくせに大型犬用の首輪を引きちぎるほどのバイタリティがあって、こりゃもう殴ってしつけるしかないんじゃないかとなったことがある。だって犬だし。言葉通じないし。5キロしかないちっちゃい体で体当たりして壁や床に穴を開ける奴だし。

でも結局体罰はぜんぜん効かなかった。

叩けば萎縮するし一生懸命言うことを聞こうとするけど鬱憤が溜まるのかさらに衝動性が増して吼えたり噛んだり物を壊したり、どんどん状況が悪化していくだけ。そりゃまぁ人間だって一方的に叩かれてたらグレるよね。

そして結局、広々した庭で放し飼いにして頻繁にドッグランにつれていったり山で離したりして思い切り走り回らせることにした。そしたら手のつけられない暴れん坊だった犬が、ものすごく賢い猟犬になった。私がほしかったのはかわいいペットであってウサギやネズミを狩ってくる猟犬じゃなかったんだけどね…。田舎に住んでてよかった。

 

 

 

思ったんだけど、他人に言うことを聞かせるためには「おもわずやってしまうくらい楽しい仕組み」を作るのが一番能率的で、規則や罰則で縛ろうという発想自体がもう既に悪手なわけなんだけど、そのあたりまったく知らない人がすごく多い気がする。

 

都ファの禁煙条例とか、離婚後の親子面会を強制するとか、そういうやつ。

d.hatena.ne.jp

禁煙しろとか面会しろと命令するのではなくて、禁煙したくなるようなシステムを作るべきだし面会したくなるようなサポートを充実させなくてはいけない。てかそもそもそんなにタバコに害があるならタバコ販売禁止にしろよと。そこは利権が絡むからやりたくない、じゃあ個人に責任を押し付けよう、みたいな発想。

あと給食残すな運動もそう。

 

tohima.hateblo.jp

これ私リアルでやられたことあるんだけど、結局学校中でさらし者を作って無理やり口に給食詰め込んでデブが増え、最終的にビニール袋に残飯を詰め込んで家に持ち帰って捨てるようになった。そんなことする前にもっとおいしい給食出せば解決なのに、予算と人手が必要な部分は解決せずに現場にすべて押し付けようとする。

 

学校の宿題もそうだよね。

hedgehogx.hatenablog.com

 

 

hedgehogx.hatenablog.com

 

 

こういうのが当たり前だと思っているから、体罰というキングオブ悪手ですら容認してしまうのだろう。

 

 

 

 

 

やたら叩かれるけど、実際の年寄りは悲惨な生活をしている件

「今の年寄りは恵まれているというけど、年金なんて夫婦合わせて月20万だよ。かつかつだよ。それを削減しろというのは今後年寄りになる君たちの未来を削ることになるんだよ」

と、ご高説を立てる年寄りがいたのでたこなぐりにしたくなった。

 

だっておまえ、そこそこ重い病気になったのに助かってんじゃん。

障害残って介護保険フルに使ってんじゃん。やれ膝が痛いだの骨粗しょう症だの高血圧だの言って毎月病院行って山ほど薬貰ってんじゃん。奥さん老人ホーム入ってんじゃん。医療費だけで軽く見積もって月100万くらい使ってる。

 

今後年寄りになる我々世代はその100万を自己負担しろって言われてんの。手取りの年金額の問題じゃないの。窓口で数百円負担だから馬鹿にはわかんないかもしんないけどさ、国が自分にいくらつぎ込んでくださってるかちゃんと計算してから文句言えよ。