雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

終末期医療の現状について「うわぁぁぁ」ってなる人に向けた文章

まず前提として、ちきりん氏の書いている終末期医療についての記事は全く取材していないPV稼ぎのためだけの質の低い記事で、そんな間違った情報を情報発信者として力を持つちきりん氏が書くというのはほんとによくない、というのはほんとだと私も思っている。そしてそれに対する反論を専門家が書くというのも頭の下がる試みだと思う。そして基本的にAprildiamond氏の書いた『ちきりん氏の「終末期医療について考えよう!」によせて』の記事に書いてあることは妥当で穏当で臨床で起こっていることをできるかぎり正確に伝えていると思う。

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というわけで、『ちきりん氏の「終末期医療について考えよう!」によせて』の記事を読んでなるほどなぁ勉強になったなぁと思える人はここで私なんかの駄記事を読むのを終わりにしましょう。

ここから下は、現在の医療に関して「うわぁぁぁ」となる感性の人に向けて書きます。「うわぁぁぁ」とならない人には絶対理解できない内容なのでお互いの幸せのためにそっ閉じしてください。

 

 

 

 

で、本題。

「我々はベストを尽くしている、患者は人格を尊重され患者の自己決定も常に尊重されている、よって何も問題は無い」て主張する医療者はいっぱいいて、それで納得する人もいっぱいいて、それはそれで別にいいんだけど、それは象牙の塔の中だけのマイルールでしかない。マイルールに共感できない感性のサイレントマジョリティは現在進行形で彼らに絶望させられている。

今回はそんな、良識と善意あふれる医療現場が地獄への道にしか見えないタイプの感性の人に向けて書きます。

 

 

ちきりん氏の言ってること、わりと正しくね?

いやモルヒネ云々とかあきらかに現場知らねーなっていうふわっとした文章だけど素人だからこそ案外正確に現状を捕らえてるんじゃね?

なんか、医学用語における「自己決定権」だの「患者様の権利」だの「クオリティオブライフ」だの、意味が軽るすぎんだよ。医者の言う「患者の意思を尊重した」は患者目線だと「医者からいい加減な説明されて拒否権もなく決定された」と同義になってる。

 

 

だって私、Aprildiamond氏のお書きになっているような臨床を見たことないもの。

 

 

一旦始めた治療であっても医学的に無益・害と判断される場合治療の中止は可能です。

 「医学的に無益・害」と日常の素朴な感性における「もうばあちゃん十分生きたから見送ってやって」の間にはものすごいギャップがあって、十分生きたばあちゃんの最後が苦しいものになって本人も殺してくれって言ってるのに「医学的には有益だから」という理由で生かされてる人がいっぱい病棟にいる気がするんだけど。

まずそもそも「患者に対する治療は医学的に有益か否かによって決定される」というのがもう吐き気がするほど傲慢だということに気づいていないメンタリティが恐ろしい。なんで私が私のことを決めるのに医学様にごちゃごちゃ言われなきゃいけないの。彼らは患者に人民の権利を放棄させていることを絶対に認めないよね。

 

医療従事者が行う医療行為は全て(家族というよりも)患者の同意が必要です。

我々医療従事者は「患者が」同意しない医療行為を行うことは基本的にはできません。

 で、でたーー同意。

同意してないめっちゃしてない。特に年寄りと精神障害者の同意は認知症統合失調症とせん妄で片付けられてる。医者の問診を録音してテープ起こしすると、こいつら頭おかしいだろ認知症はお前だろというレベルで患者の話聞いてないしカルテに反映してない。

 

「家族の希望に従う」は誤りでして、まずは「本人の意志を推定する」ことになります。それが不可能な場合は「患者にとって何が最善であるか」を家族と十分に話し合うことになります

もしやとは思いますがその患者はあなたの想像上にしか存在しないのではないでしょうか?それかあなたは先進国ニッポナントカにお住まいなのでは。私は中世ジャップランド在住なので、「本人より金の出所である家族の希望を最優先する、それを受け入れられないならこの仕事はできない」て明言されましたけど。同意無しでマットコール設置とか、同意無しで胃ろうとか、同意無しで手術とか、ほんとあたりまえに毎日あるけど。患者なんて医者と家族のオモチャだけど。

病院や施設に行くと、死にかけなのに死ねないゾンビみたいになったじいさんばあさんにがしっと手を掴まれて殺してくれって叫ばれるとか超日常茶飯事なんですけど。そんでカルテ見ると認知症とか統合失調症とか書かれてるのね。医療スタッフにとって都合の悪い言葉は全てビョーキのせいにしてなかったことにしている。

 

でも私にとってどんなに地獄に見えても医療スタッフは「何も問題ない」としか言わないから、私の頭がおかしくて殺してくれって叫び続けて顎が外れたじいさんとかすぐ死のうとするからベットに縛り付けられてるばあさんとか、私の妄想の中にしかおらんかったんや!とずっと20年くらい思ってた。すげぇリアルな幻聴幻覚だけどでもこれ現実だったら大問題だもんね、だれも問題にしてないってことはやっぱ私の妄想だよかったー。て。

でもパキシルでもリスパダールでも妄想は消えなくて、そのうち「実は私も医療は地獄だと思ってた」とか共感する人が出てきたりして、え、もしかして私の頭がおかしいんじゃなくて現実がおかしいのか?と思い始めた。なにそれどんなホラーより怖いんだけど。

だけど相変わらずほとんどの医療従事者は「何も問題ない」と主張しながら地獄を繰り広げていて、もし私の知覚が全部現実だとしたらこの世は(てか日本の医療は)どれほどの不幸を生み出してきたのだろうと人類の原罪的なものの重さに耐えかねている。

 

 

 

 

 

感覚過敏はフィードバックのない敏感さなのではないかと思った

味覚過敏だからマックのハンバーガーしか食べれません、慣れた味しか受け付けません、という類の人を見ると腹が立って仕方なかった。だって、味覚が過敏なくせに味覚の暴力みたいなマックのハンバーガーは平気で食べれるとか意味が分からない。

と、思う私は味覚『過敏=恣意的な情報を過大に受取ること』ではなくて『敏感=多様な情報を受信し分析できること』で、過敏と敏感は別のものなのだという納得のしかたをしていた。

hedgehogx.hatenablog.com

 

でさらに最近、過敏と敏感は断絶したものではなくて、もしかしたら『過敏』というのは『未熟な敏感さ』なのではないかと思うようになった。

 

この間「チョコレートとキャラメルが苦手です」という若い女の子に会った。彼女は食べ方とか味覚とかがとても貧しい感じで、いや別に貧乏くさいとかではなく食の楽しみ方が分かってないっていうか、とりあえずアミノ酸と塩分こんもりならウマいと思ってるような感じ。

たぶん彼女は農園によってカカオの味が違うことを知らないだろうし、キャラメルはミルクと砂糖の風味を味わうものだということも知らない。

彼女がチョコレートという言葉で表現してるのはスニッカーズみたいな脳みそば馬鹿になりそうなくらい甘さで、キャラメルという言葉で表現してるのはヌガーみたいな人生どうでもよくなるような甘さなんだろうなと思った。そりゃチョコもキャラメルも嫌いになるわ。

スニッカーズやヌガーみたいなアメリカンな味覚の暴力は音楽でたとえるとデスメタルみたいなもんで、たまに自主的に聞く分にはおもしろいけど四六時中デスメタルがかかってたらそりゃ嫌いにもなる。

 

いやちょっと話しただけだから本当のところどうなんだかわかんないんだけど!

なんかもう、小樽につれてってフェアトレードチョコレートで作ったケーキと北海道の本気ミルクキャラメルをご馳走してあげたい。味覚ってのは砂糖と油分と人工香料で塗りつぶされるもんじゃないんだよと教えてあげたい。

 

でもいきなりチョコとキャラメルだと引かれるだろうし、ていうかそもそもよくわからん取引先のババアにおごられるとかストレスでしかないだろうから、とりあえず次回の打ち合わせではおいしいパン屋に連れていって小麦粉の甘みから教えてあげたい。それくらいならキモくないよね……

 

実家のメシがマズいという話

ある一定の世代はまずいご飯に関するトラウマみたいなのを抱えている人が多いような気がする。とにかく母親のメシが不味い。どういうわけだか今60から70くらいの母親のメシはなぜかものすごく不味い。ぐっちゃぐっちゃの煮物に添加物こんもりの佃煮に極めつけは水あめにつけた昆布なんかが出てきたりする生家の食卓に嫌気が差して過食に走ったり拒食になったりしてる人を何人も知ってる。

あの世代の母親は食事を残すことにも厳しくて、無理矢理口に突っ込まれたりしてえづきながら咀嚼するとかもよくある。そして子供に対してそんな強権を発動できてしまう母親を乗り越えるのは得てして大変苦労する。

食事で子供を支配しようとする母親はたいていの場合食事以外の全て、思想も感情も人生そのものも全て支配しようとする。

 

そんでまぁ私も例に漏れずクソ不味いメシを詰め込まれていて、その上わりと特殊設定があったりしたものだから食事に関しては相当ねじれている。

人生の初めの10年を他人の思惑に従うことだけに塗りつぶされたことを、私は幸運だったとも思わないが特筆するほど不幸だとも思っていない。

 

生家から逃げ出した後にグルメなオッサンに拾われていたことがあって、食事というのはえづかなくても咀嚼できるのだということをその時はじめて知った。味噌汁が水から出来ていることも、フルーツはカットされた状態で生えてはいないことも、袋菓子は袋に入った状態で売られていることも、水揚げされた港によって魚の味が違うことも、料亭で食べるアクセサリーのような食べ物の作り方も、そのときに知った。

私は毎日台所に立ち料理をするようになった。私が作る私のためだけの料理を私だけが食べるというのは自我を寿ぐ行為だったのだと思う。

 

独身で子なしのつらさを想像してみた

この間仕事で長期出張してコンドミニアム的なところで数週間一人暮らし体験することになって、これめっちゃきつくね?てなった。

 

まず、朝起きて自分のいる場所が思い出せない。関連して今日が何月何日かもよく分からない。つまり自分が何者で何歳なのかもよくわからない。鏡みて「わー私こんな顔なんだー。多分女?だよね??」みたいなレベル。当然仕事の予定なんか思い出せるはずもなく、下手すると遁走とかしかねない。

そもそも仕事が終わってから仮の住処であるコンドミニアムにきちんとたどり着くのが結構難関。だって真っ暗な一人部屋とか帰りたくないじゃん。ついふらふらときれいなお姉さんについていっちゃったりしそうじゃん。ていうかむしろ自分が今住んでいるコンドミニアムの場所とか名前とかをすぐ忘れて路頭に迷ってしまうので、一昔前の知的障碍者みたいに首から住所と連絡先を書いたパスを下げて最寄の交番でパスを見せてここに行きたいんだけどって毎日道を聞いてた。まじで。おまわりさん手間かけてすみません。

 

もう気分は入院で環境ががらっと変わって悪化した認知症のばあちゃん。

いやでもまじで悪化するって。自分の中で同一性が崩れている人の場合、住み慣れた家とか、毎日顔を合わせてる家族とか、そういうの同一性を保つためにすごく大事。ていうか「いつもどおりの日常」だけが己の同一性を保障する唯一のものなんだということがよーーーく分かった。

地震で家が崩れたとか殺人鬼に追いかけられて逃げてきたとかそういうエマージェンシーモードだったら環境が変わってもわりと平気だったりするんだけど、日常の延長なのにそこに私を知る人だけがいないってのはほんと病む。

 

いやまっとうで健全な人ならここまで崩れないんだろうけども、でも方向性としてはだいたい同じような追い詰められ方をするのだと思う。

一人暮らしにおけるサイコな追い詰められ方を物理的な困窮と同等に考えて現代社会における子育ての困難を子持ちに押し付ける言動はやはり不合理で意味が分からないけど、でもその裏には彼らなりの苦痛があるのだということを考えていかないと正論だけでは絶対に認めないんだろな、と思った。

 

 

 

 

考えたら私、一人暮らししてたときもたいてい友人や恋人の家に転がり込んでたから一人で寝たことってほぼ無いんだった。

あと今思うと多分、精神科病院に入院したときも同じような状況になってた。ここはどこ?ていうレベルではなくて、健全な知能と認知を持つ人間であれば誰しも自分が誰であるのかそして自分がどこにいるか自分自身が把握してしかるべきであるという認識自体が欠落していたから恐慌状態に陥ることはなかったし、閉鎖病棟は情報量が少なく設計されていたからあんまり露呈しなかったけど。

やべー。私にとって抑圧しているという認識自体が欠落するというのは普通のことだけど、でも一般的な基準に照らし合わせたらほんとやべー…そりゃ退院渋られるわ。。。

 

 

怒られていることが理解できない情緒の欠陥?みたいな子の原因とか考えてみた

うちの子がほんと人の気持ちを逆なでにすることばっかりしてなにこいつ発達障害かよてことでWISC受けさせたらただの高IQで、じゃあ障害とかじゃなくてサイコパスかよやべーwwてなってたんだけど、たぶんこれ逆転移という人類の基本機能の一部がインストールされてないだけじゃね、ということに気づいたメモ。

 

うちの子は先生や親に怒られるときの態度が超最悪。

ごめんなさいが素直に言えないし、そもそも怒られてるのによそ見してへらへらしてたり、話を聞く態度が火に油を注ぐ。どんなに怖い顔をしても大声を出しても怒っているということが伝わらない。

これってあれだよね、発達の教科書で見たやつ!

表情で感情を伝えるというノンバーバルコミュニケーション能力が使えない発達障害の一例のやつ。トーマスの顔みたいなフェイススケールで表情と感情の関連を勉強するんでしょ知ってる!

 

て、思ったんだけど、どうもうちの子の場合ちょっとそれとは違うっぽかった。

 

おそらく一般的に想定されている発達障害というのは感覚の異常と知能の異常に大別されて、発達障害における知能の異常とはミラーニューロンが発達してない的な、自分以外の視点が存在することを想定できない障害のことを指すのだと思う。

でもうちの子、他人の視点はめっちゃ理解してる。3歳時点でお気に入りの人形について他人に聞かれたとき「私の人形」と答えるレベル。普通だったら「私の友達のメルちゃん」とかになるじゃん。そこで「これは私の友達のメルちゃんだけど他人から見たら一般の人形と同様に見えるのだ」とナチュラルに理解してしまうほど客観視してる。

 

なんか、普通にノンバーバルコミュニケーションはできてるし空気も読めてて相手が怒ってるってことは理解してるっぽい。どうにか怒りを静めたいという気持ちもあるっぽい。えーー?じゃあなんであんな火に油を注ぐ態度とっちゃうの。普通にごめんなさいすればいいじゃん、と思って数年疑問だったんだけど、どうやらうちの子は怒るという感情がいまいちよく分かってなかったらしい。

 

彼女は基本怒るということがなくて、だから他人が怒っていてもそれがどういう状況か分からないし何をしていいのかもわからなくて、ごめんなさいを言えば丸く収まるということも理解できなかったっぽい。

 

「怒る」と「叱る」と「駄々をこねる」の三つはぜんぜん違う。

 

  • 「駄々をこねる」は自分の感情を制御できなくて泣いたり暴れたりしてしまうこと。
  • 「叱る」は相手との関係改善を目指して話し合うこと。
  • 「怒る」は制御できない自分の感情を他人のせいにすること。いわゆる逆転移

彼女は「叱る」と「駄々をこねる」は理解していたけど「怒る」がわからなかったらしい。彼女にとって自分の感情はあくまで自分の感情で、制御できなくて大泣きしたり癇癪を起こしたりはするけど、それはあくまで自分の責任であって他人のせいではない。

たとえば、お菓子がほしいのに買ってもらえなくて大泣きしたとする。

それはお菓子を買ってもらえなくて悲しいという気持ちをうまく制御できない自分自身の問題であって、大泣きすることで親をコントロールするための行動ではない。なので彼女は泣いた後「迷惑かけてごめんなさい」と謝りにくる。泣いたことを親に謝る子供ってどんなだよむしろ親が悪者みたいじゃんと思うけど彼女の中ではそれで筋が通っているらしい。

そして泣いたことを謝った後、どうしてお菓子がほしいのか、どうしてお菓子を買ってはいけないのかという話し合いを経て両者の合意点を見つける、というのが彼女にとってデフォルトの流れ。

彼女にとって感情というのは自分自身で尊重するものであってそれを理由に他者を動かすものという発想はない。

 

でも普通さぁ、「お菓子を買ってくれないママが悪い」になるじゃん。

そんで泣くのだって「泣くことでおかしをかってもらおう」という目論見が入るじゃん。人間は社会性の動物だから、感情を発散させることが他者をコントロールすることにナチュラルに繋がるじゃん。

怒るのも同様に、怒って大声を出すことで言うことを聞かせようという目論見じゃん。だから怒っている人には理屈なんか通じなくてとりあえずうわべだけでも従順にしておけば満足するんだよ、ということをどうにも彼女は理解できないらしい。

 

ああぁぁ、めっちゃデジャヴュ!既視感が半端ねぇ!!

 

そうだね私もそうだったよ…自分の感情を他人に逆転移するというのは私たちにとって、とても難易度の高いルールなんだよ……

だけどそれ知らないと暴力に巻き込まれたり下手すると殺されちゃったりする可能性もあるからね…

 

とりあえず

  1. 多くの人は非理論的に行動する
  2. 非理論的な人に理論は通用しない
  3. 彼らは動物のように扱うと満足する

という人付き合い三原則を教えたらめっちゃ人当たりよくなった。よかった。

 

 

何も考えずのほほんと生きていける人たちについて考える

たとえば私がうなるほどの金とヒマを持っていたら、1ヶ月くらいは南の島でのんびりするだろうけどその後はなんだかんだで事業とか始めてやっぱり今みたいな生活をすると思う。うなるほどの金とヒマではなくてもっと小規模な、たとえば突然1ヶ月休みになったりとかでも、その1ヶ月でなんだかんだ新しいことをはじめてしまう。

だから会社の朝礼とかPTAとか夏休みの宿題とか中学校の部活理論みたいな、ヒマだとロクなことをしないからやるべきことを与えるという発想がめっちゃわけわからない。そんなくだらないことやるんだったら休みにすればいいじゃん。そしたら各々勝手にやりたいことを見つけて世の中発展するだろうに。

 

なんだけど、強制されなきゃなにもやらないタイプの人というのが結構いるらしい。

それとか、みんながやってるからというだけの理由で周りに合わせて生きていて、自分の選択に別段愛着がないとか。

なにそれどうしてそんなんで生きてんの。やりたいことがみつからないとか私なら自殺してるけど。やりたいことが無いとか、生き物としてどうなのそれ。実は生き物じゃなくて石像かなにかなのかな?

 

いや別にそれは構わないんだけど、そういう人ってなんていうの、めっちゃデリケートwでナイーブwwでよくわからんことで絡んでくるのが意味わかんない。

「なんでその仕事選んだの」とか「なんでその服着てんの」とか「なんで影で文句いいながら毎年盆正月には実家帰るの」とか聞くとなんかよくわかんないけど激怒すんじゃん。「そんなくだらない仕事しやがって」とか「くそださい服着てるね」とかだったら怒るのわかるけど、ただ聞いただけでなんであんなに怒るの。

聞いたら怒るのはまだいいよ。私が聞かなければいいだけだから。自分から「この仕事どう思う?」とか話振ってきて、「めっちゃ不合理な仕事だと思うし、私ならそんな仕事しない」って正直に答えたら怒りだすとかほんとなんなの。「誰もがみんなあなたみたいに合理的な判断をできるわけじゃないのよ!ほんとはあなたが正しいって分かってるけど行動できないの!」とか言われるけど別に私合理的なんかじゃないからね。ただ好き勝手やってるだけで正しいとかそういうんじゃないから。

 

別に不合理だろうが正しくなかろうが不幸だろうがそれが好きならそれでいいじゃん。私にはちょっとよく分からないけど、そんなにブラック仕事が好きなら続ければ別にいいんじゃね。

て、私は思うんだけどそうすると「こんなブラック仕事好きなわけ無いでしょ!ほんとはやめたほうがいいって分かってる!」とか最終的には「偉そうに見下さないでよ!」てもうなんだよ意味不明だよおまえペッパー君のがよっぽど理路整然と話すぞ。

 

んーと、なんだろう、なにか根本的な前提がくいちがってる気がする。

 

私自身はブラック企業とか意味が分からないし絶対さっさとやめるけど、だからって別にブラック企業に勤め続ける人を否定する気はない。私にはちょっとわからないけどきっとブラックなほうが好きという人だってこの世にはいるんだろう。そういう人がブラック企業でたのしくブラックしてるならそれはそれでよいことだ。

なのになんで「どうせあなたは私のことを見下してるんでしょ!」になるの??

いや別に見下してないし否定もしてないし。ただ私とあなたの価値観は違う、それだけのことを言いたいのになにヒス起こしてんの。

 

なんか多分、彼らは私が「ブラック大好きでブラックに勤めたくてたまらない」と言うまで攻撃を止めないんじゃないかな、と思ったりもする。

彼らが気に食わないのは自分と違う価値観を持つ人がこの世に存在するということ自体で、だったら自分以外の人を全員殺すまで平穏は訪れない。なんかたいへんそう。

 

 

己の生い立ちを語ってみたら思った以上にカオスで苦笑い

 

 

たぶん、私にとって最も原始的な感情は悲しみとか憐れみという類のものだったように思う。

 

子供の頃、当時私は「本家のおひいさま」として実家の蔵で大半の時間を過ごしていたのだけれど、目の前で起こっているのはニュートラルな現象にすぎないはずなのに、なぜか私の心はそこにままならない悲しさとか生をまっとうできないことに対する憐れみだとか、そんな勝手な判定をつけてしまうことを不思議に思っていた。そしてなんの選択権もなくただ眺めているだけだというのに、目の前に起こる現象に意味づけをしてここにはない未来を願ってしまうヒトという仕組みはなんと罪深いのだろうと思っていた。

私は蔵の白壁しかしらないはずなのに、ままならない、だとか、生を全うできない、だとか、一体何と比較してそう判定しているのだろうと、そしてその判定に対して沸き起こるこの感情は一体なんなのだろうというのが当時は分からなかったけれど、選択権を完全に剥奪され自分のことも他人のこともただ眺めることしかできなかった当時抱えていたあの感情はたぶん「祈り」という言葉が一番近かったのではないかと今ではそう思っている。

 

今思うと、私の家が神道系でわりと救われていたのかもしれない。これでキリスト系だったりしたら人間の生き様を人間が判定するとか罪悪感半端無いのかも。いやでも神道系だったからこそ「おひいさま」を擬似的な神として隔世に閉じ込める的なことが発生しちゃったわけなんであんまよくなかったのか…?

 

 

あと、なんとなくノリで自分の生い立ちを語る的なことをしてみたんだけど、これすごいおもしろい。自分のナラティブを自分で能動的に組み立ててくってリアルタイム歴史改変すげぇ。

でも私の人生はすごく説明しにくいってことが分かった。

これが普通の虐待とか貧困とかだったらまだ共感のベースがあるけど生まれたときからずっと蔵に閉じ込められてたりとかどこのファンタジーだよと。そんでなんだかんだで大人になって楽しく悪徳業者とかやって人生謳歌してるとかほんと意味わかんねー。何がどうしてそうなった。いっそ舞台を大正時代とかにしてファンタジーですみたいなことにして小説家になろうとかで書いたほうがよっぽど収まりいいんじゃね。

 

てか「自分のナラティブを能動的に選び取る」というのが目的であれば生い立ちが事実であるかどうかというのは関係ないので、記憶や事実に拘らずいろんな設定で書いても別に構わないのかもしれない。

 

たとえば

  • ごく普通の中流家庭に生まれ、姉は優秀だけど私は優秀じゃなくていつも比較されて育った、とか。
  • 嫌われるのが怖くていつも他人の顔色を伺っていたら本当の自分が分からなくなった、とか。

こっちのがずっとほんとっぽい!全部ウソなのにめっちゃほんとっぽい。これならわりと共感してもらせそう。私的にはさっぱり共感できないけども。

 

 

いやでも、生い立ちを捏造するというのはおもしろそう。

現在の私の寄って立つところとしてどのような物語が一番しっくりくるのか、また他人も納得するのか、みたいなのを考えてみたい。