雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

なぜ「全方位にむかつく人」について考え始めたか

この話題は自分でもまだよく分かっていないので文章も断片的になります。

まず、私がなぜこの話題に興味を持ったかについて。

大分前に人を雇ったんだけど、そいつがめちゃくちゃむかつく奴で全方位からの敵意をまんべんなく醸成しながら生きていてロックな奴だなぁと思っていたのだけど、何年かじっくり話をしていく中でもしかしたら今の現状は本心ではないのではないかと思うようになったので、じゃあこいつはなんでこんなにむかつく言動を繰り返すのかというのを考え始めました。仮にそいつをAとします。

 

私個人としては他者に好悪の感情を向けることがほぼないのでAに対してもむかつくとか嫌いとかは特にない。ただ、Aが嫌われる理由はなんとなくわかる。これは単に頭が悪いとか要領が悪いとか口のきき方が悪いとか態度が悪いとかそういう表面的な言動の問題ではない。畳みの縁を踏んだとか敬語が使えないとか右手を差し出したのにシェイクハンドしないとかそういう具体的な言動へのむかつきではない。

確かにAは知能や記憶力も低い。だから無礼な言動を修正できない。たとえば「誰かがあなたに対して右手を差し出して来たらシェイクハンドしなさい」と何度教えても覚えず握手を無視する、みたいな感じのことが頻繁に起こる。でも覚えられないとかこだわり行動とかは知的障害全般によくあることなのに、愛される知的障害者と嫌われる知的障害者に二分されてしまう。だから「何度教えても覚えられないこと」と「妙にむかつく言動を繰り返すこと」の二つは厳密に分けて考える必要があると思う。たぶんここを混同することが不幸の第一歩な気がする。

 

何度教えても覚えられないこと、なんていうのは誰にでもあって、そんなのシステムで解決すればいい。立ち入り禁止の札を立てても理解できないなら扉に鍵をかければいい。そこにいらだちは発生しない。

まずここで混乱している人が多いのか。

「がんばる」とか「おもてなし」とか「やる気」とかで解決できることなんてほんの少しで、たいていのことはがんばるではどうにもならない。だからがんばらないでもできるように環境を整える。

まずこれが理解できない人がいるんだな。だんだん分かってきた。

 

人間のがんばりなんて宇宙規模で見たらゼロに等しい。よって私ががんばったかどうかなんて結果にほとんど影響しない。というあたりまえの事実が受け入れられない人達がいる。これは少し話題になった「確率が理解できない人達」の話なのかもしれない。

手洗いうがいマスクを徹底していたってコロナウイルスで死ぬときには死ぬ。そんなのしょうがない。へらへらと生存していている私と、コロナウイルスで死んだ人との違いは無い。別に私の徳が高いから生き残ったとかではない。次の瞬間には私が死ぬかもしれないし、その死に意味は無い。

というのがどーーしても理解できないタイプの人たちがいる。

そうするとがんばりとか努力とかで全てが解決できると信じ込む。がんばりが通用しないというのは世界が覆ることだからアーアーアーキコエナイ状態になる。

 

 

ちょっと分かってきた。これ馬鹿すぎるAの問題であると当時に単にバカなだけのAの言動を曲解して怒り出す周りの問題でもある。というか周りの問題のほうが大きいのかもしれない。

Aに怒り出す周りの人はおそらく、世界公平仮説がAによって脅かされたと感じるから怒り狂うのだと思う。あと、Aの真意が見えないことが多大なストレスになっている。

愛される知的障害者は言動が分かりやすい。昼食に好物が出たら喜ぶし、嫌いな人に会ったら不機嫌になる。

だからAが単に壊滅的に仕事ができないだけの人だったら実はそんなにストレスではない。取引先で大風呂敷を広げちゃうとか、やるって言ったことをやってないとか、そういうのは「あいつは馬鹿だから」で許される。ぼんやり天然うっかり馬鹿であるという確信が持てればそれで全てが解決する。

あと、Aはとにかくリカバリが下手というのもある。

なにかやらかしたとして、上司に気持ちと時間の余裕があるときに白状すれば別に普通にフォローされて終わるのに、ギリギリまで黙ってる。もう締切数時間前という状況になって初めてやらかしが発覚して、たいして申し訳なさそうでもなく「サーセンww」みたいな言動をする。愛されるやらかしと嫌われるやらかしの違いはやらかし本体ではなくリカバリのやりかたなのだと思う。

リカバリが下手なのは周りが見えていないとか状況を理解できていないという知能の問題とされることが多いし実際知能の問題でしかないのだけど、Aの上司の立場からするとこれを単純にAの知能の問題と捉えることは非常に難しい。実際しりぬぐいをする側としてはどうしても感情的に物事を見てしまう。

 

ここ。たぶんここがいちばん大事なとこ。

 

AのやらかしはAの知能が足りないだけの問題で、大人は感情を抑えて理性で動くべきで、だからAのやらかしは理性で処理されるべきで、でも実際のところ人間は理性ではなくお気持ちで動く。Aのやらかしをお気持ちで受け止めてしまうし、お気持ちをヨシヨシされないとAを嫌うしかなくなる。だからこれはAの知能が足りない問題ではなく、Aの周りの人のお気持ちをどうヨシヨシするか問題だ。

ていうか弱者や福祉周りの全ての問題は当事者ではなく支援者のお気持ちヨシヨシ問題だ。

 

で、支援者のお気持ちをうまくヨシヨシできる弱者は愛される。とてつもなく愛される。人間、どれだけ有能かなんて些末な問題で、一番重大なのはどれだけ他者のお気持ちをヨシヨシできるかで決まる。

でもヨシヨシというのは自分のプライドを押さえつけてへいこらすることではなくて、もっとシステマチックに、立ち入り禁止の看板を立てるのをあきらめて入口に鍵をかけるような、誰も擦り減らない方法がある。それを知らないとヤリ捨てられる女の子みたいになってしまう。

 

 

 

ちょっと分かってきたので今後うまくまとめてゆきたい。