雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

馬鹿むけの文章を書いてるけどどうすればいいのこれ。

くそうなんで私がこんなことやらねばならんのだ教えてやってんだから文句言うんじゃねーよ全てを理解してから来やがればーーーか!!!

いや金のためだけど。馬鹿むけの商売儲かるからやってるんだけど。

でもほんともうなんなのあいつら馬鹿すぎない?自分で考えて理解するって発想無いの?無いのか馬鹿だから。でもだったら大人しく勉強すればいいじゃんなんなの飽きたって!この程度のことも理解できないなら一生刺身タンポポやってろウスノロ!人間向いてないアメーバからやり直せ。そんな使えない脳みそは維持するだけ無駄だから高級珍味として売り出してしまえ。そっちのがよっぽど社会貢献になるわ。

いややるけど。儲かるから。石油王になりたい。

同じタイプの天才をみつけた

はー私ってこう見えるんだ。そりゃ信者が増えるわけだ。

 

たまたまみつけたとあるブログなんだけど、なんというか、どの記事もひとつ残らず全てが一貫している。個人のやっているブログなので本人としてはおそらく思いつきをその都度書いているだけなんだろうけどとにかく全てが正しい。間違いというのが存在しない。一見矛盾するように見えても読み込むと繋がっていることがわかる。質の高い推理小説のように、バラバラに見える事柄が全て伏線になっていてかならず華麗に回収される。

これが学校の授業のように、著者は初めから全てを理解しているが初学者のためにわざと細切れにして見せているとかなら分かる。研究して確実に分かったことだけを記述しているのでも分かる。それは読者としては「断片的な事柄に見えるが読み込むと全てが繋がっている」体験にはなるかもしれないが著者の中ではもうすでに確固たるものがある。いわば仕掛けのある手品で、手品師は仕掛けを理解している。

でもそうでなくて、本人にもよくわかっていない思いつきの断片を適当に並べているだけなのに一切の矛盾がない。仕掛けの無い手品みたい。

ゴールがみえない試行錯誤をブログという形で記録する場合、ああかもしれないこうかもしれないとあれこれ仮説をたててあれは間違っていたがこれは正しかったとかいう結論になるのが普通だと思う。でもそういう、あのときはこう思ってたけどよく考えたら違ったわごめん、みたいなのが一切ない。

そして信者すごい。笑った。著者が何か記事を上げると「著者様が我々迷える子羊に何を伝えたいのか」考察大会がはじまる。著者様のお言葉全てが正しいはずで、矛盾しているように感じてしまうのは信心が足りないからだみたいなのが平然とまかり通っている。なぜ適当な思いつきを書いてみただけなのにこんなに信仰されてしまうのか。。。

 

 まぁこの手のタイプは実際間違ったことなんか書きようがないんだけどね。考えを書いているわけではなく見えてるものを書いてるだけだから。

群盲象を評す、みたいな。それぞれの盲人は全体図を把握していないしバラバラなことを言うけれど全体としては正しい、みたいな。そんな。

 

おそらく私やあのブログ主は問題の全体図を把握する能力はあまりない。ただ質問されてその都度「柱のようです」「扇のようです」などと答えてるだけ。とくに何も考えず、今自分が触っているものを答えるだけなので本人としては別に何の苦労もない。

でも支離滅裂に見える言葉を全体図の中にプロットしてゆくと象の姿が浮かび上がる。

 

これを全体を把握する傾向のある人からすると、とてつもなく巨大で人間なんかにはとうてい理解できないほどの混沌をなんの苦労も無く言い当てている大宇宙の賢者みたいなものに見える。ただの群盲なんだけども。

 

 

私の場合は単純にIQで殴っている部分が多くて、たとえば複雑な平面図をみて脳内で立体として理解するとかそういうことが私にはできるからすげーとなるんだなと思っていたし実際その面も大きいのだろうけれど、なんというか問題に「触れる」というか?そういう私の能力はもしかしたらものすごく貴重なもので、群盲が象を触ってあれこれ感想を言う的なのは誰にでもできることじゃないかと思っていたけど実は違うのかもしれない。

じゃあ群盲なのに象を触れない人がたくさんいるってこと?

そういう人は何をどう理解してるわけ???

 

 

 

 

 

 

アスペルガーとADHDのワガママの違いをど素人が考えてみた

ど素人です。思ったことを書きます。

 

発達障害だか人格障害だか、とにかくなんかめんどくさそうな人というのは

 

たとえば二人でケーキを食べていたとき

A「あなたのケーキ一口ちょうだい」

B「あなたのケーキも一口ちょうだい」

A「えっヤダ」

 

みたいな感じのことがわりとあって、でもその原因がそれぞれあってそれぞれに対処法が違うのではないかという仮説です。ちなみに私もよくAみたいなことをやらかします。ごめん。

 

おそらく、上記のようなことが起こった場合「Aは身勝手で他人を踏みつけにするひどいやつ」というような解釈をされてぼこぼこに叩かれるんですけども必ずしも身勝手が原因でそういう態度になるわけではなく、ぼこぼこに叩かれても本人は何が悪いか分からず矯正できず恨みを募らせるという負のループに突入することが多いので、いや正直Aみたいな人なんて矯正させて差し上げる義理はないので放っておけばいいのですがせっかく考えてみたので記録しておく。

 

Aみたいな態度になる本質的な理由としてAの脳の特性、つまり発達障害がある気がする。そしてその上にこじらせまくった二次障害が乗っかって訳の分からないとにかくむかつくやつが爆誕する仮説。

 

まずは本来の特性を考えてみます。

アスペルガーの「えっヤダ」

ここではアスペルガーというのは一度インストールされた自分ルールを変更できない人、という定義で話を進めます。

その場合、Aは「このケーキは私のものである」というルールを変更できない事態が発生すると「えっヤダ」になると考えられます。そうなった場合の対処法としては、この世には予測不可能なものもある、一度決まったルールでも変更されることがありうるということを学習するというものになりそうです。

 

 

ADHDの「えっヤダ」

ここではADHDは時間の繋がりがよくわかってない人、という定義で話を進めます。

その場合、Aの中では

A「そのケーキ一口ちょうだい」

B「あなたのケーキも一口ちょうだい」

の関連が分かってない。Aの中では「そのケーキ一口ちょうだい」「いいよ/やだよ」で会話が完結しており、それに続くBの「あなたのケーキも一口ちょうだい」という言葉が自分が発した「そのケーキ一口ちょうだい」と関連するのだというのが分からない。

Aの視点ではまるでBが突然「私はおまえのケーキを一口食べる当然の権利がある」と主張しだしたような感じがする。なので「えっヤダ」というのは拒否というより疑問で、「なんで?私のケーキなのになぜあなたにあげないといけないの???」という気持ち。

この場合、Aは別にケチで「ヤダ」と言っているわけではなく、本気で理由がわからないだけなので、たぶんBが「そのケーキ一口ちょうだい」と言えばAは「いいよ/やだよ」で答える。Aが特別空腹だとか絶対にケーキを独り占めしたい理由があるとかでない限り「いいよ」と答えると思う。

すまんやで…

いつもは突拍子もない要求(と私には感じるもの)を突きつけられた時はきっと私が関連を見落としているのだという前提で前後の文脈を思い出そうと努力しているけど疲れているときやぼんやりしているときはとっさに「えっヤダ」となりがち。

 

多分自分ルールを改変できて、前後のつながりもわかる、いわゆる定型発達の人というのはこのような理屈がわからないので悪意の「えっヤダ」しか思い当たらないのかもしれないです。

じゃあASやADHDが全て上記のような勘違いによる「えっヤダ」しか言わないピュアな人かというと全然そんなことなくて、時としてものすごい悪意と攻撃性でもって「えっヤダ」に至る、というのが次の話です。

 

ASのなんかよくわからないこだわりと攻撃性

自分ルールが変更できないことに由来する「えっヤダ」であれば普通に「ヤダ」と表明すればいいだけでそこに攻撃性とかいらない気がする。なのにアスペルガーの人はルールを変えることにやたら攻撃してくる。あれなんなの。ほんとなんなの。この世には予測不可能なものがある、とか、他人の気持ちは予測不可能である、とか、そういうこと自体が許せない!と怒り出す。なんなの。。。

知能のひくめな自閉症スペクトラムの人や重度のアスペルガーの人のこだわり行動とかパニックとかはなんかわかる気がするんだ。牛とか馬とかと同じで見慣れないものに対応できない感じで、あくまで自分の中で完結している。牛や馬は見慣れないものを見ると大暴れするけど「ここにこんなものを置くなんて許せない!こんなものを置く奴は非常識だ!!」とか言わない。

でもなんか、他人が操作することが目的になっているというか、他人が思い通りに動かないなんてひどい!この世の全てが私の思い通りにならないなんて恐ろしくて仕方ない!みたいなのがよく分からない。「僕は学校に行こうとしたのに、ママが邪魔するから不登校になった」みたいなやつ。じゃあ、ということでママが僕を完全無視したら「僕は学校に行こうとしたのに、ママが世話してくれないから不登校になった」と言い出すやつ。どうしろと。いったい何がどうなったらそういう結論ができあがるんだ。

発達障害は育て方の問題、と言いたくなる気持ちはよく分かる。育て方以外でどうしてこんなのができあがるのか想像できない。そして確かに育て方によって後天的に他責思考になることは多そう。ふんぞりかえってモラハラしてる老害の大半は後天的なものじゃないか。でもそれとは別に生まれつき底意地が悪くて3歳くらいからすでに頭角を現すやつっているよね。あれなんなの。

 

後天的だか先天的だかその両方だかわからないけど、他責思考の人はけっこういる。自粛警察とか。女をあてがえKKOとか。延命至上主義とか。

そういう人に共通しているのが、自分が何を要求しているか自分でも理解していない、ということだと思う。女をあてがえと言うけれどもし現実に女をあてがう社会ができあがっても若くて美人で性格もよい子はどう考えてもKKOには回ってこないというのが分からない。むしろなぜ自分がなぜ女を求めているのか男じゃだめなのかなぜまんこがくっついているというだけでそれだけ夢を見れるのか、というのが自分で分かっていない。彼らの最大の問題は自分が何を求めているのか自覚できないこと、なのだろうということはだんだん分かってきた。

でもそこから先、今のところ私は彼らに「自分が何を求めているか考えろ」と言うしかない。能力がないのに能力を要求しても解決にならない気がするけど、それ以外に彼らが救われる道を私は知らない。どうすればいいのか今後も考えていきたい。

 

 

ADHDのなんだかよくわからない攻撃性

こっちも面倒だけど、私にとってはこちらのほうがまだ理解できる。

ASの人が「それは正しくない」という怒りかたをするのに対して、ADHDの人は「そんなのひどい」という怒り方をする気がする。

ASの人は「世間であったり常識であったり、なにかこの世の全てを規定する絶対のルールが存在していてそれに反している」と考える。実際には絶対のルールなんてのはASの人の頭の中にしか存在しないわけだけども。ケーキの例であれば「私は世間のルールに従っているのにBは従っていないBは常識が無いBは悪い奴だ」となる。

ADHDの人の頭のなかには「自分も自分以外も全ての人が従うべきルール」のようなものは存在しない。各自の好き勝手な行動の集合体が社会だと思っている。その中で「私はこんなひどいめにあった」と主張する。ケーキの例であれば「私は何もしていないのにBは理由もなく突然ケーキを奪っていったひどい」となる。というかもっと突き詰めれば「私は何もしていないのにケーキが減った悲しい」となる。Bがケーキを食べたからケーキが減ったという因果すら理解しない。この気持ち、私はめちゃくちゃよく分かる。もっと重度になると自分がケーキを食べたこととケーキが減ったことの因果関係も分からなくなる。そうなったADHDの世界観としては、理由なく意味の分からないものが目の前に現れたり消えたりして、自分が好きなものとか大事にしたい物でも理由なく突然壊れたり消えたりする予測不可能なものになる。目隠ししてジェットコースターに乗っているみたいな。わかる。すごくよくわかる。

でもここまで関連性が消失していると逆になにがなんだかわからないので怒ることも無くなる。怒るというのは期待しているということで、「ケーキは理由なく減らないはずなのに減った」から怒れるのであって全てが特に理由もなく増えたり減ったりするのがあたりまえであれば怒る理由がない。中途半端に関連性が消失したときが一番怒りだす気がする。

 

これに関してはとにかくADHDの足りない頭では処理できないほどの情報があることが問題なので、周りも自分も要求水準を下げてADHDはそういうしょーもない奴、というのを自分も周りも理解すると全員幸せになると思う。ASに比べてそんな難しくはない気がする。

 

 

過去のフラッシュバックによるこじらせ

ADHDであれASであれ他の理由であれ、できないものはしょうがないのにがんばって適応しようとするととてつもなくめんどくさいことになる。たぶん二次障害とか言われているやつ。もううざすぎて思い出すのも嫌なので書かないけどとにかくめんどくさい。そういうのを生まないためにも、しょーもなさ、どうしようもなさ、というのを許容できる仕組みを作らなければいけないと思う。

ADHDに関しては世の中の要求水準を下げるというか、ハイコンテクストすぎるガラパゴスを解放してグローバルにするだけでだいぶ楽になるというのがわかってきたのだけどアスペルガーはどうすればいいのかを今後考えていきたい。

 

 

 

 

 

80歳の高齢者に完璧な医療を提供するべきという人命至上主義の人達が求めているものは何なのか2

80歳の高齢者が肺炎で呼吸困難になってから入院まで数日かかって結果死亡した件について。

80歳であろうと90歳であろうと肺炎になったら速やかに入院して治療が受けられる体制を整えるのが当然でそれに反対するのは鬼畜か救いようのない馬鹿、みたいなことを主張する人命至上主義の人達の理論は破綻しています。

前回書いたのは

1彼らの多くが「自分や自分の家族も同じ扱いをされてもいいのか」と言います。どうやら脅しのつもりのようですが、「自分や自分の家族であっても高齢になったら濃厚医療を受けずに死んで構わない、むしろ医療を受けたくない」という人がいることを決して、絶対に、認めない謎

2彼らの主張することを忠実に実行すると高齢になっても濃厚医療を受けることになり高齢者に死にかけ腐りかけゾンビのような苦痛を強いることになるのですが、彼らは本当にそれを望んでいるのか

という2点です。

それで、自分の望んでいることを的確に主張するというのは実はかなり難易度が高くて、高齢者であっても即時入院して治療できる体制を整えるべきだという考えを素直に実行すると、自分や自分の愛する人を腐りかけゾンビにするために生産年齢の若者の人生を食いつぶすという誰も幸せにならない結果になるのですが、おそらく彼らの目指すものはそれではないと思います。

つまり、彼らの主張は言葉通り受け取ってはならず、彼ら自身すら分かっていない本心をくみ取って差し上げなければいけない類のものなのでは。

 

 

たぶん彼らは病院に入院するということの意味をあまり深く考えていないのでは。

この記事のブコメを読んで考えました。

b.hatena.ne.jp

sirikodama ごめん、ちょっと怒りに震える。高齢の肺炎は仕方ないとか人情ぶったとか延命しないとか言ってる奴ら。論点が違う。国の不備で死を前に病院も行けず同居の妻も高齢。感染させたら死ぬ。その苦しみを想像できないのか

kamonyan1 高齢者が亡くなったことと病院が見つからないこと。混同するのはよくない

こういう人達の要求を満たすくらい潤沢な医療リソースを用意して80の高齢者であっても救命できる体制を整える、というのは天井知らずにリソースを食うので無理だよねという話なのですが。

 

たぶん入院するというのは彼らにとって安心であったり十分なケアであったり、なにかお気持ちに対する保障のようなものなのでは。病院に行って入院さえすれば「最善をつくした」「やるだけのことはやった」となる、ある種免罪符のような位置づけ。

考えてみれば寿命が尽きそうな人とその周りの人にたいして「あなた方は最善を尽くした、やるだけのことはやった、あとはともに天命を待ちましょう」という許しを与えるものは現代において医療しかないのかもしれません。だから彼らは医療に縋る。だけど医療は許しを与えてはくれません。現代医療という人類史上最も残虐な神はどこまででも生贄を要求してきます。1%の高齢者を救うために貧困で自殺するロックダウンを要求し、それでもまだ満足せずさらなる犠牲を求めています。全財産を寄付せよと要求する阿漕な新興宗教なんて子猫ちゃんに見えるくらい、莫大な犠牲です。

しかも、それだけ多くの犠牲を払っても手に入るのは腐りかけゾンビです。

 

だいすきなおばあちゃんにいつまでもにこにこ笑っていてほしい、死んでしまうのであれば手厚く見守って看取ってほしい、という気持ちは分かります。

でも、それは80の肺炎患者が即時入院できることで得られるものなのか。自分が要求しているものはいったい何なのか。

 

猿の手という小説を思い出します。

妻は息子を生き返らせてほしい、と願いましたが、それは「昔に戻りたい」であってその願いが不可能であれば次善の策として息子が死んでしまったことを嘆き悲しみ受け入れるだけの手助けと心の強さこそが彼女の本当の願いだったのでしょう。ですが彼女はは自分の本当の願いに気づけず、あとはご存じのとおりの結末です。

自分の願いを正確に表現するというのは高い能力が必要なことらしいです。もしかしたら能力がない人には不可能なことなのかもしれません。であれば彼らの本心に沿ったものを与えられるような枠組みを誰かが考えてあげる必要があるのだろうと最近思うようになりました。でも私はそんなめんどくさいことはやりたくないので誰かやっといて。

 

 

 

 

 

80歳で肺炎にかかっても延命治療をすべきだと主張する人たちの傲慢さ

コロナで自宅待機の80代の人が死亡したというニュースで大騒ぎしている人がたくさんいるのだけど延命至上主義の人の想像力のなさはいったい何なのかと言うところと、延命至上主義の人は本当はどうしてほしいのかを考えてみたい。

 

 

mainichi.jp

コロナ陽性と診断されたにも関わらず入院が遅れてやっと搬送されたけれど手遅れで死亡したそうですが、これ15日に陽性と診断されて16日に呼吸困難になって救急搬送されているので診断後24時間くらいで入院してますね。13日の一度目の搬送からなら3日。

男性が亡くなるまでの経過
4月上旬 発熱などの症状が出る

13日 症状が悪化して救急搬送されるが、入院の必要はないと判断され帰宅

15日 陽性が判明。入院を求めた家族に対し、保健所は「重症者を優先して入院させている」と回答。入院はできず

16日 呼吸困難となり救急搬送される。重い状態で高度な治療ができる病院に入院

27日 集中治療室で死亡

医療崩壊というけど普通でもこんなもんじゃね?

むしろ16日に入院して11日も死ねないんだというのが怖い。11日間でいったいどれだけ苦しんだんだろうか。なぜ80まで生きて最後の11日間で呼吸器やエクモに繋がれて苦しまなければいけないんだこの年寄りがなにしたっていうんだ。

 

 

80で肺炎になって即日入院治療する環境は果たして幸福なのだろうか。

少なくとも私には幸福とは思えない。それなら自宅放置のほうがよほど幸福。そりゃ死を待つ人の家のようなものを選べるならそちらのようがよいかもしれないけれど、それが許されない現状なら自宅で放置されて死ぬ方がいい。

とか言うと、

differential 80代は死んでも仕方ないって、自分の親や祖父母に面と向かって言ってきたらいいし、何ならそれを仕方ないというあなたたちが年取った時に、顔前で人差し指を突きつけて言ってみたい。何様?

とか言ってくる人がいる。

こういう人はいったいどういう世界を見ているのだろうと言うのがずっと不思議だった。

 

80代は死んでも仕方ないと自分の親や祖父母に平然と言って、実際80で病気になったら医療にアクセスせず看取る人達というのはわりとこの世に存在するのですが、そういう価値観がこの世にあることをこういう人は認識していないのでしょうか?

とか言うとあれなのか。年寄りを見殺しにする酷いやつみたいに解釈するのかな?見殺しではなく本人の希望なんですけど。80の当事者が「俺はもう寿命だから死ぬ」みたいなことを言うし、周りも「じゃあしょうがないねさよなら」となるだけなんですけど。私はさっぱり派の身内を二人見送っていて、「いや俺は石にしがみついてでも延命する」という延命至上主義の身内にはできるかぎり濃厚医療を提供してきました。私はさっぱり派ですが、他の人がどう考えていようと本人の意思を尊重します。

 

 

延命至上主義の人には想像が難しいのかもしれないですが、年寄りは死んでも仕方ない、という人がこの世に結構いるんですよ。自分の家族も愛する人も自分自身も、年を取ったら死ぬ。それは仕方ない。ずるずると生きているよりは肺炎でさっさと死んだ方が好ましい。という価値観なんです。そういう価値観の人がこの世にいるってことは理解できますか?むずかしいですか。

 

もうちょっと軽い話題で考えてみましょうか。

私はカレーが好きです。でもカレーが嫌いな人もいます。私は晩ごはんは絶対にカレーであるべきと思っていますが、晩ごはんがカレーでないほうが良いと思う人もいます。

これと同じです。

私が絶対正義だと思うからといって人類全員が同じ考えであるわけではありません。

私がどれだけカレーが好きでも、他の人にカレーを強要することはできません。

 

 

 

それと、80でも濃厚医療すべきと言う人はどのような濃厚医療をイメージしているのでしょうか。

人は年をとると死にます。

残念ながらそれは覆らない事実です。

その上で、どんなに高齢でも濃厚医療をすべきというのは、「施設でベットに縛り付けられてチューブつっこまれてオムツして褥瘡で背中がぱっくり割れてても生かす」という意味になりますが、延命至上主義の人はそういう主張をしているという認識で合っていますか?腐りかけのゾンビみたいになるんですがそれでも生きていたいということですか?私なら生きながら腐るとか勘弁してほしいですが、それがいいというのなら、私はその感性を尊重します。

 

そして延命には莫大な人手が必要です。

それも覆らない事実です。

その上で、全ての人はどんなに高齢でも濃厚医療をすべきというのは、「腐りかけのゾンビ状態になって指一本動かせない状態で疲れきった介護者に乱暴に転がされて胃につっこまれたチューブから冷凍のままの流動食を無理やり押し込まれる」ということなのですが、延命至上主義の人の目指すものはそれであっていますか?

 

そういうの大好き!はやく褥瘡で皮膚がズル向けになって骨まで露出した状態で呼吸器つっこまれたいなー!介護負担で子孫の人生を潰すの楽しみ!!という人もこの世にはいるのかもしれませんが、たぶんたいていの人はそうでないのではないでしょうか。

おそらく、大半の延命至上主義の人が求めているものは「大好きなおじいちゃんにいつまでもにこにこしていてほしい」というようなものなのでは。

人間が不老不死であればその願いも叶うかもしれないのですが、残念ながら人間は年をとると死にます。とても残念ですが。だとしたら、延命至上主義の人は医療体制が充実すればするほど不幸になってしまいます。

彼らに必要なのはやなり、死を待つ人の家、受け入れがたい死を悲しむための場所、なのでは。

 

 

 

 

 

理解できないものの存在が耐えられないという心理を想像してみる

たとえば中身の見えない箱があって、その中には何色か分からない紙が入っているとする。色は分からないがとにかく紙が入っている。としたら私はその箱に興味を持たない。紙なんて別にどこにでもあるし。別にそんな得体の知れない物をわざわざ使わなくても。これが紙でなくて猛毒とかの私に危害が加わりそうなものだったらしょうがないからどうにかしようと思うけど。

でも何色か分からない紙の入っている箱が気になってしょうがなくて箱をあけて何色の紙なのか確認するまで落着けないという人がわりといて、私としてはそういう人は何らかの理由で紙が何色かがその人の人生に影響するのだろうなと思っていた。

 

でももしかしたら、不確定要素そのものが不快という人がいるのだろうか。

私に一切関わりのないもの、たとえば月の裏側の模様がどうなってるかとかそういうことまで分かってないと不安で仕方ないというような。

なにそれどういうこと。めちゃくちゃ生きずらそう。地球に住むの向いてなさそう。

 

それ自体はそういうこともあるかもしれない。甘いものが嫌いな人もいるし辛い物が嫌いな人もいるし不確定要素が嫌いな人もいる。

ただ不思議なのは、不確定要素の存在を知らずに大人になってしまったような人がわりといるということだ。世の中は不確定要素だらけなのに、よく分からない自分ルールを強引に適応して自分の中で理屈をくっつけて確定要素だと思い込むことで心の平穏を保とうとする。ここまではわかる。不確定要素が嫌いすぎてどうにか排除したい気持ちになる。これもわかる。でもそれが通用するのはせいぜい幼稚園入園まででは。毎日怒涛のように襲ってくる不確定要素を体験し続けてなぜ疑問に思わない。最近ずいぶん精度が上がったとはいえまだまだ外れる天気予報を毎日見てなぜ不確定要素の存在に気づかない。スーパーでキュウリが売ってたり売ってなかったり、朝顔が育ったり枯れたり、カブトムシがいたりいなかったり、世の中は不確定要素だらけでは。なぜ気づかない。

もしかしたら近代生活は不確定要素に気づかなくても済んでしまうのかもしれない。

きっちり時間通りにくる電車にのってそれなりに精度の高い天気予報を見て都会のスーパーで通年売ってるキュウリを買っていつでも売ってるアマゾンで本を買えば全て予測可能な生活が成り立ってしまうのでは。それにしても解像度低すぎかよとは思うけれど、世の中の人の9割は私より頭が悪いのだからその程度の粗さでも気づかないのかも。アスペルガーには農業が効く(かもしれない)

 

 

不確定要素が不安で仕方ないとか、私のように時間の繋がりが分かってないとか、そういうのは嗜好というか性向というか、好みの問題だと思う。性的嗜好と同じで自分の嗜好は一生変えられないけれどそれはそれとして他人の嗜好を理解することはできる。私はポリアモリーだからお前もそうしろとか言い出す奴は別の病気。

でも性的マジョリティでマイノリティを受け入れがたいとか傲慢なことを言い出すやつらはみんな「考えたことがなかった」と言う。「ずっと自分があたりまえで、それ以外の嗜好があることなんて頭の片隅にすらなかった」「差別する気はない」と。この考えたことがなかった、考えないことを許されてきたことが社会的強者の傲慢。

それで、これが私がアスペルガーの人に対して思ってきたことなのかも。なんであんなに傲慢でいられるんだろうと思ってきたけれどそれは本気でこれまで一度たりとも考えてきたことがなかったからでは。そんな甘ったれた世界でぬくぬくと生きてきてボクチャンこれからも甘ったれでいたいからおまえらボクチャンのために犠牲になるの当然だろ!と言われても。犠牲になってやる義理ないんで。

 

そう思うとこれはもしかしたら近代精神医学の禁忌、発達障害は育て方で決まるみたいなものになってしまうな。

アスペルガーは元々不確定要素を嫌う素養を持ち、かつ脳の可塑性の高い幼少期に不確定要素を体験しなかった場合に発現する。これは掛け算で、不確定要素を嫌う素養がそれほど高くなくても幼少期の生育環境が極悪ならアスペルガーになる。だから不確定要素を極力排除した現代生活ではアスペルガーが多くなる。これはとてもしっくりくる。

私の知ってるアスペルガー診断済みやアスペルガー傾向があるっぽいと私が勝手に思ってる人達はなんというか経験の幅がとても狭い。土を触ったことがない、ミミズを見たことがない、木に登ったことがない、海で泳いだことがない。これは生来の不確定要素を嫌う素養のためそれらの経験を拒絶してきたというのもあるけれど、どうも聞いていると家庭環境も影響がありそうで、そういう多様な不確定要素を家族ぐるみで排除していることが多い。それでそういう家庭環境が主な原因なタイプは多様な経験を積むことでアスペルガー要素が弱まる。それで完治みたいな感じになったりした人を知っている。

あとやっぱり知能。

不確定要素を嫌う素養を持ち、幼少期に不確定要素を極力排除した生活をしても、知能が高ければ数少ない不確定要素に気づくことができるので、その場合は不確定要素を嫌う嗜好を持つけれど不確定要素を理解しており、恐れたり憎んだりしない。それで私がよく接するような人たちはこのタイプが多くて、なんか世間で言われているアスペルガーと違う。一昔前の素朴な自然科学ならいざ知らず最近のサイエンスの最前線に立つなら不確定要素を理解する知能は必須なのでそういうのしか生き残れないのだろう。

ただ彼らは自分の望む世界が決して実現しないことを悲しんでいる。そういう意味ではやっぱり彼らは地球生活が向いていないのかもしれない。私も人のこと言えないけど。

 

 

あと不確定要素自体が怖いというよりトラウマになってるようなのもありそう。

子供のころ親の機嫌という不確定要素に左右されて暴力を振るわれたとかがあれば不確定要素イコール不安要素になってしまいそう。ここに不確定要素を嫌う生来の嗜好が加わるとさらに不安が強化されて修正できなくなったりしそう。このタイプ多そうな気がする。不確定要素に怒り出す人は切羽詰まっているというか追い詰められているというか自分が正義だと思い込まなければ崩壊するような危機感を感じる。

この場合はパブロフの犬のような、Aボタンを押したら褒められてBボタンを押したら叱られるみたいな不確定要素を極力排除した人間関係を作っていくほうがいいのかもしれない。そう思うと私が妙に好かれるのも分かる。私の基準は私の気分でコロコロ変化する不確定要素ではあるけれど私は言語能力が高いので変化の根拠は常に明示できる。あとモノ扱い。こういうタイプはモノのように扱ってあげるとよくわからないが喜ぶのでSMのようなSMでないようなよくわからない関係が成立する。わからん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

能力が低いのに自己評価が下がらない謎現象

私は子供のころからなにもかもできなくて、どれくらいできないかというと誰かに連れて行ってもらわなければ学校にたどり着けないくらいのできなさで、大学も忘れるので毎朝知人に電話してもらって自分の行くべき大学を教えてもらっていたくらいできない。それでも大事な試験の日を忘れて留年しかかったりしていた。今でもぜんぜんできないので仕事の約束の時には相手の人に私が家を出るべき時間を見計らって電話してもらって今日の仕事内容や持ち物を教えてもらう。食事も睡眠も忘れるので適切な時間に促しが必要。もはや介護。要介助レベル。偏差値で表すなら20くらいな感じ。

私は時間管理という点で能力がたいへん低く周りの配慮を必要とする。周りの人の配慮がなかったらとっくに死んで今ごろ干物になっている。なんでこんなわけのわからない薄らぼんやりした生物をみんなよってたかって世話するのか不思議でならないがたぶんそれは私がとてつもなく恵まれていたからなのだろう。

 

それで、忘れ物が多いとか約束を守れないとか友達ができないとか、私からすると遥か高みにいる人達、偏差値なら40くらいは取れているような人達の自己評価の低さとそれに由来する攻撃性に引く。時間管理に関しては私よりよっぽど能力が高いはずなのに、なにがどうなればそんなにこじれるんだ。

障害受容とか、なんか難しいことらしい。自分が劣っていることを自覚するのが大変だとかちょっとよくわからない。どんだけ自己評価高いの完全無欠のゴッドですか。人類なんてデフォルトでダメなんだから少しぐらいダメが上乗せされても誤差の範囲じゃん。

もしかして修羅の世界にお住まいなのかな。

少しでも弱みを見せたら攻撃されるような。これは私が「うざい」はわかっても「怒る」が分からない問題なのかもしれない。おまえのここがダメで私は迷惑している、とか言われたとして、だからといって私の価値は下がらないというか。迷惑をかけたのならそれは不幸なことだけど「じゃあ私とつきあわなきゃいいじゃん」で終わる。人間関係なんて化学反応みたいなものでナトリウムに水をぶっかける奴が悪いのであってナトリウムも水も悪くないし性質を変える必要も無い。それで友達いなくなるなら別にそれで。

見捨てられ不安の話なのか。

私のまともな社会生活はいろいろな人に依存している。彼らが私から離れていったら私は即干物になる。もし私が干物になりたくないなら、彼らが不愉快になるのは脅威かもしれない。たぶんたいていの人は相手に媚を売るか見捨てられて干物になるかなら媚を売るのだろう。そのあたりのよくわからない執着みたいなのが違いかもしれない。