雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

性欲が加害欲と混同される理由を考えた

性欲が本当に性欲ならTENGAで満たされるはずなのに生身の相手を求めるのならそれは性欲ではなくコミュニケーション欲求であり、相手を支配したい思い通りにしたいと思うなら加害欲であり、それらを性欲と混同して自分の中の不都合な残虐さを「しょうがないよね性欲だから、ちんこついてるから!」で許容されようとする卑怯さ、みたいなのを私はずっと言っている。もちろんこの卑怯さは女性にもあって、女性の場合は性欲より母性を隠れ蓑にしがち。

 

おまえのその欲求は性欲でも愛情でも母性でもなく単なる加害欲よな?

というのごく簡単なことがどうして認められないのかというのが長年疑問だったのだけど、もしかしたら彼らの言う性欲というのは自分のちんこやまんこをどうにかしたいというやつとは全く無関係な、性欲のふりした性欲ではない何者かなのでは。そしてこれはもしかしたら異性愛という強力な呪いなのではないかという気づき。

 

多くの人は性別にとても強くこだわる。

私としては子作りする予定のある相手以外の性別なんかどうでもいい。同僚とか友人とかセフレとかであれば性別は気にならない。性格とか考え方とか信頼できる人かとか、性別よりも優先すべき事項が山ほどある。

が、多くの言語には品詞に女性形と男性形があり男性か女性かが分からないと会話すらできないくらいに人類にとって性別を区別することが重大事項になっている。

 

では性別を認識することは人類にとってどういう意味合いなのか。

これは単に生殖可能性の問題ではなく、自分と同一人物できるかどうか、自己の境界線の問題なのではないか。

たとえば、少年漫画で冒険する主人公は読者と同じ男性であり、少年たちは「男性である」という1点だけで主人公と自分を同一視できる。逆に少女は「男性でない」という1点だけで主人公と自分を同一視できない。

 

ちっぽけでささやかな小市民である自分と、勇敢で有能で世界を救ったりする偉大な主人公と、何もかも全く違うのに「同性である」という1点で同一視が可能になる。これが性別の最大の機能なのではないか。

逆に、「同性でない」から同一視できない、抑圧された行き場のない気持ちが拗れまくってモンスターとなったのが恋愛感情であり性欲とされているのでは。

 

 

つまりたとえば、若くて体力が有り余っててコミュ力高い爽やか好青年に対して私がなんらかの感情を持ったとする。

私が好青年と同性であれば、私は好青年と自分を同一視する。つまり「オレも夜通しカラオケできる体力とコミュ力がうらやましい(オレも体力ほしい)」だとか思うだけで終わる。

が、私が好青年と異性であれば私は好青年と自分を同一視できない。「私も夜通しカラオケできる体力とコミュ力欲しい」と思いたいけどそれは思ってはいけない。女は男の振る舞いをしてはいけない。

行き場の無くなった私の欲求は姿を変え、「夜通しカラオケできる好青年が欲しい、自分のものにしたい」になるのではないか。世話したい依存させたい、あるいは俺の肉棒をつっこんで体液を流し込みたい、あるいは捕食したい、というふうに発酵し変形した形で現れるのか「性欲」の正体なのでは。

 

生贄の心臓を食べて神と同一化するみたいな呪術的思想が性欲なのでは。

と考えてみると、毒親と縁を切れないとか子供に過干渉になるとか彼氏と別れられないとか親の介護で潰れるとかの自他境界が侵食している問題の根底として異性愛と性欲があり、結局自分の問題を自覚することから逃げるために恋愛があるのでは。

 

私が「好青年うらやましい」と思ったとして、私も体力つけるためにジョギングしたりモテるために美容に気を使ったりという自分のための努力をすればそれで解決する。

でもジョギングも筋トレもしたくないダラダラしてたいでも好青年は欲しい、となったらもう好青年を誘拐して監禁するくらいしかできないし世の中の人はたいていそうやって自分の問題を恋愛と錯覚することで問題から逃げているのでは。そこで平然と問題を指摘して解決することを迫る私は確かに神を殺すものであり新時代の神として見えるのかもしれない。