雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

己の死生観を自覚する試み

時間調整をミスって待機時間がえらいことになっているので最近思っていることをとりとめもなく連投します。

 

コロナが大流行しているのに自粛しないのは自分や自分の身内は死なないと信じ込んでいるからで、自分の周りにリアルに迫るリスクをきちんと理解すれば「正しい」行動をとれるようになる、みたいなのを最近よく見かける。

そういう人はおそらく自分の祖父母が肺炎で死んだら悲しむようなメンタルの人なのでしょう。それはそれで一つの感じ方であり否定されることではありません。でも自分の感じ方以外を全否定して、自分と同じ結論にならないのは相手が理解不足だからだ、懇切丁寧に説明すれば絶対に分かってくれる、みたいな、自分の感じ方が唯一絶対正しいそれ以外は間違っているという考え方をどうにかしないとおそらくコロナ騒動は収束しない。これは対感染症の戦いではなく、死への向き合い方の断絶、医療の在り方への断絶です。どのように死を受け入れるのか各自が考えて選択しないとコロナだけでなく今後発生する全ての新型感染症で毎回同じパニックを繰り返すことになります。

 

 

つまり何が言いたいかというと。

 

私が何十年も前からずーーっと言ってきたことをいまさらやっと自覚して大騒ぎしてやがるバーカバーカ!これだから愚かな人間どもはプゲラ

というのも、正直言いたい。めちゃくちゃドヤ顔したい。愚かな人間どもに苦しまされてきた私や私の大切な友人の分まで苦しめばいいのになとも正直思う。ヒステリーを起こすやつらを尻目にコロナパーティしたい。私は愚かで卑小な人間なので。

 

それと同時に、こちらがわにようこそ、いらっしゃい。という気持ちもある。自分だけが唯一絶対でそれ以外が存在しなかった世界から、複数の真実が並列に在る世界へようこそ。いましばらく失われた完全無欠な世界を哀しんで、あなたがたの喪があけたらたくさん話をしましょう。こちらがわもそんなに悪い場所ではないですよ。

 

まぁどちらにせよ私の勝手な意見でしかないわけで、今パニックになっている人にはこんな言葉は伝わらないだろう。そもそも私の見立て通りになる確証も無い。

 

こういうとき、自分のことはそっちのけで他人を変えようとしてしまうものだけど一番先にやるべきは自分が何を感じているのかを明確に自覚することだと思う。

自粛しないやつらにキィー!となっている人にとって肺炎で失われる人命は何より重いものなのでしょう。それ以外の価値観を認めることができず、自分の価値観に従わないのは理解が足りないからだと断じてしまう。でも人の行動には全て理由があります。私は理解が足りないのではなく、あなたとは違う価値観に従って違う理解をして違う結論に達しただけです。必要なのはあなたの価値観を理解させることではなく、相手の価値観を理解することです。

 

 

という特大のブーメランを放ったところで、私自身の死と生に対する価値観をさらっとまとめておこうと思います。なんかもうみんな他人にああしろこうしろよく考えて俺と同じ考えになれっていうのが多すぎて不毛。そんなんより自分自身について語り始めたほうがよっぽど前向き。

 

たぶん私は生きることにあまり執着がなくて、死ぬんだったら別に死んだ方がいいと思っている。だってどうせいつかは死ぬんだから。やることやったらあとはいつ死んでもいい。

私個人としては別にいつ死んでもいい。私なんて才能以外は何の価値も無い。

同様に、私は私の大切な人がいつ死んでもいいと思っている。実際みんなわりと気楽に死んでいくけど別にそれでいい。死んだからといって私の気持ちは変わらない。これからの時間を共有できないのは少しさみしいけれど、生きていたって四六時中べったりしているわけではないから別に同じ。

 

たぶん、私は選択すること活動することに大きな比重を置いている気がする。生きるということは、自分で考えて自分で選択して自分で活動することで、それらができないのだったら生きている意味は無いのでさっさとログアウトしたい。つまんないゲームを何十年もやってあげる義理は無い。

そしてたぶん、他の人も私と同じ価値観で生きていると素朴に信じている。だから親しい人が死んでも「今生というゲームがつまんなくて早々にログアウトしたんだな」と思うから悲しくない。むしろ喜ばしい。私にとって隣人への愛は、つまんない(ように私には見える)ゲームをしている人を早々にログアウトさせてあげることになる。つまり要介護の人の呼吸器のスイッチを切ることが最大の親切、と感じる。そういう感性で新型コロナを見ると、体力が落ちていたり基礎疾患があったりする人が死ぬ病気であればそれはむしろ積極的に感染させてあげるほうが親切なのでは、と思う。私自身が感染して死んでもそれはそれ、私の体の賞味期限が来ていたというだけなので。

賞味期限切れの体を維持するためにリソースをつぎ込むとかほんと意味が分からない。どんだけリソースつぎ込んだってどうせ死ぬんだから次いこ次。リソースに余裕があるならともかく、老人の介護で子が仕事を辞めるとか孫が進学できないとか、老人は恥ずかしくないんだろうか子や孫を愛していないのだろうか命は大事なはずなのに、これから長いこと生きている命を削ってまで死にかけの命を延命しようとするのはなんか矛盾していないか。そのあたりどういう整合性をとっているのだろう。

 

 

なんかほんと不思議なんだけど、命はだいじ!という人達の行動は私には矛盾に満ちているように見える。延命絶対やらないとダメと言うくせに自分は無理な延命をしてほしくないと言う。延命して管を突っ込まれるのが楽しみで仕方ないと言う人に私は会ったことが無い。自分がされて嫌なことは他人にもしちゃいけないんじゃなかったんか。

これが正しい私が絶対正義!とがなりたてるまえにどういう思想に基づいて何を主張しているのかちゃんと言葉にしてくれないとこちらとしても対応のしようがない。