雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

己の中の2歳児と向き合う

「おいもが7つあります。3人で分けると、1人いくつでしょう」
みたいなのが全然わからない。冷静になってじっくり計算すれば分かるけどとっさに分からない。




多分私は幼児期から小学生くらいまでの知能と情緒の発達段階がごそっと抜けてる。抜けてるくせに中学高校大学レベルの発達はちゃんとできてる。積み木の城の土台がからっぽなのに上の方だけちゃんと積み上がってる。
幼稚園とか小学生とかほぼ行けてなかったから子供がなにを経験してなにを感じてなにを学ぶか全然分からないまま大人になってしまった。
まぁ勉強に関しては幸いなことに持ち前のハイスペックで事なきをえたし退屈すぎる田舎の小学生なんか行ってたら間違いなく不登校になってただろうから通えなくてむしろよかったまであるんだけど、問題は情緒のほう。


おいもがいくつもらえるか、なんて分からなくても大人生活が送れるけど、でもなんか根本的な原理というか原則みたいなのに対する信頼感が持てないまま生活をするのは心理的安全を損なうというか。
おいもが7つあって3人いたら、自分の取り分は2つくらいかな、という予測がないまま生きてると、ななつあるんだからななつもらえるでしょ!すくないなんてひどい!!って床にひっくり返って足バタバタさせて泣きわめきたい気持ちになる。
魔の2歳児でよくある、納豆ご飯を食べたいのにご飯に納豆をかけるとギャン泣きするってのよく分かる。納豆ご飯の味は欲しいけど白いご飯に茶色い納豆が乗ってるビジュアルは嫌。私が欲しいのは納豆ご飯の味であってビジュアルやネバネバみたいな余計なものを勝手に追加すんな!て毎回泣きたい。むしろ人生の9割はだいたいいつも泣きたい。

2歳児のくせにちゃんと大人してるの私偉い。

対策としては、大学以降の情緒と知能で処理できるハイスペ知能な集団に身を置くことで幼児性を排除して生活することなんだけど、でも普通はハイスペ知能は幼児性の土台の上に築かれるもので、ハイスペな人達も中身は幼児なので、親しくなればなるほど親密な交流が必要になって詰む。

己の中の2歳児を成長させられれば全て解決な気がするんだがどうやればいいのか。。ACとかで想定されてる「私の中に眠る傷ついた小さな子供」みたいなのとだいぶ違うぞこれ。
魔の2歳児で検索しても、ひたすら耐えるとかごまかすとか大人に向けた対処法しか無くて、ちがうんだ今私が知りたいのは2歳児本人が己の困難にどう立ち向かうかなんだ。2歳児当事者だけのピアカウンセリングとかないのか。あるわけないけど。


自殺反対とか最近の「ルックバック」統合失調症問題とか、「私なら死にたいはヘイトスピーチ」とか、障害福祉分野ってそういうとこあるよね。当事者の言葉を奪って『障害』に封じ込めようとする。そんな考え方をしてしまうのは障害のせいで、本人はそんなこと考えないはず!で口を塞ぐ。私は障害の外在化は問題を解決しないと考えているんだけど、かといってうつ病はやる気の問題とかそういう話でもなく、むしろうつ病をやる気の問題にするのは「外在化」じゃないかという、
いやもうこれ2歳児問題関係ないからまた別エントリにします。