雑記帳

リベラルでもフェミでもないただの愚痴

心が傷つくという現象はいったいなんなのか

セクハラパワハラであったり、もっと遡れば奴隷や町人を斬り殺すことであったり敵を拷問することであったりは今ではたいへん良くないこととされている。この価値観を共有できなくて性犯罪者におもねるような老害は価値観のアップデートができていないのでさっさと死ね

なのだが、私たちが当たり前に言う「価値観のアップデート」はなにかもっと理不尽な人間の仕組みでそこを理解しないといけないのではないか。

 

 

私は平然と水着ポスターが貼ってありセクハラはもちろん痴漢という言葉すらなかった時代を多少知っている。

当時の私は酒臭いビルの底で纏足のような靴に足をねじ込みペラペラなのに体をきつく締め上げる頼りない服を着て、時折外からやって来るTシャツとスニーカー姿で重い荷物を軽々持ち上げる男たちの生物としての強さに惚れてしまいそうになっていた。

そこで出会ったフェミニズムのなんと輝いていたことか!

あれがなければ私は今でもあの暗がりで髪と爪だけを気にしながら生きてそのうち肝臓を悪くして死んでいただろう。

 

そしてセクハラという言葉を聞いた時の浮遊感、これまで私たちが経験してきた数々の事柄が名付けられ体系づけられ自分と時代が組み替えられていく体験をした。言葉は正しく呪術であり、呪であり祝福であった。

 

 

また正直なところ、私個人としては、ちょっと尻を揉まれたくらいのことを何年も引きずっているような人を見ると「その程度で??なぜ?」という気持ちを禁じ得ない。

尻や乳を揉まれることや服装や言動を品定めされることや女性だからというだけで試験の点数を引かれること程度では私は傷つくことはできない。私にかけられた呪いは死ぬまで解けないかもしれないが、呪いなんか知らないまっさらな子供たちが未来を作ってくれる。

 

 

 

なんかいい話のようになってしまった

 

 

 

この「アップデート」とはなんなのか。

これは人間の知的能力の発達過程と考えるべきなのでは。

 

新生児は衝立の後ろに隠されたオモチャは消失したと感じる。でも大人は隠されていることと消失したことの区別がつけられる。誰もが新生児だったはずなのに大人になってしまうと新生児の気持ちはわからない。

 

性的な被害にあってしまった人にうらやまけしからんとなり被害者本人もそう思ってしまうような、そういう今ではドン引きな価値観というのもそういった類で、1度それを「ひどいこと」と認識してしまうともう後戻りはできなくなってしまう。でも、うらやまけしからんという段階の人にとってはうらやまけしからんが正しい。

そうなってくるとセクハラパワハラ各種差別行動はアフリカの原住民のアミニズム信仰のようなたぐいのものということになってしまう。私たちは精霊を信じる事はもうできないがだからと言って精霊を信じている人を否定してよいのか。精霊を信じられなくなった我々は本当に彼らより進歩的で自由で幸福なのか。

 

 

でもこれは、女は這いつくばって男に媚びて暴力振るわれるのが幸せであり余計な知恵をつけて自分が不幸だと気づいてしまうことこそが不幸、と言っているわけで、これは到底受け入れられない。

ファンシーな精霊信仰程度ならともかく生贄を焼き殺したり性器を切り取って縫い付ける割礼は深刻な人権侵害であり許されることではない。

 

なので「余計な知恵をつける」はむしろがんがんやっていくべきだし人類の知的発展は種の特性なので止めることはできない。これからも人類はどんどんナイーブに傷つきやすくなるだろうしそれは止められず止めるべきではない。

 

問題はアップデートに取り残される老害たちで、知的発達に個人差があるように価値観の発達にも個人差があり、長い目でみれば人類についていけない個体は到達され厳選された高知能だけが繁栄するのだが、短期的にはどうするのがいいのか。

 

 

理解できないのは能力がないせいであり本人のせいではなく、どんなに努力してもガン詰めしても理解できないものはできない。彼らは時計を巻き戻そうとする権力者ではなく産まれてくる時代を間違えたお猿さんとして扱って差し上げるべき。そんなもんを人間として尊重するのはお互いに不幸でしかない。豚に服を着せて教育を受けさせるのは尊重ではなく虐待になる。