この間ババアが列の割り込みをしてきていらっとしたのだけど、もしかしたらババアはずっと列に並んでいてババアを見落として割り込みしたのは私のほうなのかもしれない。
と、いうふうに自分の立ち位置を客観的に考えることができるのは、メタ認知能力が備わっていてかつ精神的肉体的に余裕があるからであって、割り込みババアムカつく死ねと思ってしまうのは単に余裕が無いだけなのだけど、客観視できないと相当に性格が悪く見えてとても損。
「ASDは明示のルールには従う、分からないのは暗黙のルールだけ」のようなことを言えてしまう傲慢さというか。
認識していない物は本人にとって存在しないものとなるので、見落とした看板は存在しない。本人としては目に入ったルール全てに従っているという自認かもしれないが、傍から見れば従うルールと従わないルールを恣意的に自分勝手に選り分けている。
つまり何がいいたいかというと
明示ルールに従うというならせめて言われたことマニュアル化されたことくらい守れよおぉぉぉぉ!!!
どんなに言い聞かせてもステッカー貼ったり戸棚に名前書いたり環境整備してもなーーんにもやらず面白いところだけつまみ食いして散らかし放題後始末丸投げなのに「私だけ怒られる!私だけ仲間はずれ!」じゃねぇよ……なんなんだよおまえ。。。
でも本人としては「私は全てのルールを守っているのに、私だけいつも割り込みされる」なのだろうなと。見落としたルールも、そのルールを制定してくれる周りの苦労も、存在しない事になっている。被害妄想を募らせて周りの優しさを踏みにじる。
最近明らかになってきたジャニオタや統一教会などもそう。
自分視点でキラキラしている推ししか見えなくて、推しの裏側を考えられない。私のキラキラを取り上げないで!キラキラを否定するなんてひどい!!
問題が大きすぎて銀の弾丸は無さそうだけど、とりあえず「ASDは暗黙のルールが分からない」というのをやめたらどうだろうか。周りも本人も「暗黙のルールが分からないだけ」という甘い言葉に振り回されている。
彼らに分かるのは明示ルールではなく、分からないのは暗黙のルールではない。彼らが分かるのは本人に認識できたルールだけで、認識するかしないかは本人が恣意的に決めている。つまり、彼らは自分が気に入ったルールだけを守りたいジャイアンでしかない。暗黙のルールなどという耳触りのよいものを探そうとするのではなく、自分の中のジャイアンと向き合わないといけない。
というと、「当事者だってルールに固執したくなんかないが固執してしまうのが障害なのだ」とか言われるので、これは能動態と中動態の問題、オープンダイアローグに取り組むべき話なのだろう。社会全体が中動という態をどう位置づけ向き合うか。